三日月の影

@kaido_shigure

第一章:落ちてきた魔法の杖 1

「人生の転機は、しばしば最も予期せぬ形でやってくる」 — 古代エルディア諺



青空が広がる五月の午後、佐藤一樹は塾からの帰り道、いつもの近道である青空公園を通っていた。新学期が始まって一ヶ月が過ぎ、高校二年生としての生活にもようやく慣れてきたところだった。


「あーあ、明日のテスト、どうしよう…」


一樹はため息をつきながら、肩にかけたバッグの重さを調整した。決して成績が悪いわけではなかったが、かといって飛びぬけて良いわけでもない。どこにでもいる、ごく平凡な高校生。自分でもそう思っていた。


公園は平日の夕方ということもあり、ほとんど人気がなかった。錆びついたブランコが風に揺られて軋む音だけが、静かな空間に響いている。一樹は公園の中央にある大きな樫の木の下のベンチに腰を下ろした。少し休憩してから家に帰ろう。そんな気分だった。


バッグから数学の参考書を取り出し、明日のテスト範囲をぼんやりと眺める。数式の羅列が、目の前でダンスを踊っているようだった。視線を上げると、枝葉の間から漏れる夕陽が、揺らめく光の模様を地面に描いている。


「なんだか、眠くなるな…」


一樹は参考書を膝の上に置いたまま、樹木を見上げた。青空の向こうに浮かぶ雲が、ゆっくりと形を変えていく。なんとなく和んだ気分で空を見つめていると、突然、視界の端で何かが光った。


「え?」


最初は飛行機の反射光かと思ったが、光はどんどん強くなり、そして——動きを止めた。それは空のひとつの点で静止し、太陽のように眩しく輝いていた。一樹は思わず目を細める。


「あれ、なんだろう?」


光点は次第に大きくなり、何かが落下してくるのが見えた。流星?隕石?いや、落ち方が不自然だった。それは直線的に落下するのではなく、まるで空気中を泳ぐように、ゆらゆらと揺れながら降りてきた。


「まさか…ドローン?」


いや、ドローンにしては光が強すぎる。一樹は立ち上がり、降下してくる光を見つめた。それは次第に形を成し始め、細長い棒状の物体であることが分かった。


「杖…?」


言葉が口から漏れた瞬間、光の物体は一気に加速し、一樹の立っている場所から数メートル先の芝生に突き刺さった。


「うわっ!」


衝撃で風が起こり、一樹の髪と服がはためいた。数秒間、彼はその場に凍りついていた。


周囲は相変わらず静かだった。奇妙なことに、この異常事態に気づいた人は一人もいないようだった。公園には相変わらず人影はなく、外周の道路を行き交う車や人々も、いつも通りの風景だった。まるでこの現象が、一樹にだけ見えているかのように。


「何が…起きたんだ?」


恐る恐る、一樹は光が落ちた場所に近づいた。芝生に立っているのは、確かに杖のような物体だった。長さは約1メートルほど。白銀の杖に青い宝石が埋め込まれ、複雑な模様が表面全体に刻まれている。先端の宝石はまだかすかに脈動するように光を放っていた。


「これって…おもちゃ?コスプレ用の小道具?」


一樹は周囲を見回した。誰かが落としたのか、あるいは投げ捨てたものなのか。しかし、空から降ってきたことは確かだった。彼は再び空を見上げたが、もはや何の異変も見られなかった。


「触っても大丈夫かな…」


ためらいながらも、好奇心が勝った。一樹は手を伸ばし、杖に触れた。


その瞬間、世界が変わった。


杖に触れた指先から、電流のような感覚が全身を駆け巡った。一樹の視界が一瞬真っ白になり、次の瞬間、無数の映像が脳裏を駆け巡った。見知らぬ風景、聞いたことのない言語、奇妙な生き物たち、そして…魔法。光り輝く手、炎、風、水を操る人々。


「うわあっ!」


一樹は思わず杖から手を離した。しかし遅かった。杖は彼の手のひらにくっついて離れず、むしろ強い吸着力で密着していた。青い宝石が輝きを増し、一樹自身の体も微かに発光し始めた。


「何これ、何これ!」


パニックになりながら、一樹は必死に杖を振り払おうとした。すると杖から眩い光が放たれ、一筋の青白い光線が空に向かって放出された。光線は空高く伸び、そして雲に触れた。


次の瞬間、晴れていた空が一変した。青空が濃紺に変わり、雲が渦を巻き始めた。風が急に強まり、一樹の周りの木々が激しく揺れた。そして、雨が降り始めた。しかし、それは普通の雨ではなかった。雨粒が空中で静止し、一樹の周りを取り囲むように浮かんでいた。


「何が起きてるんだ…!」


恐怖と混乱の中、一樹は杖を持ったまま、その場に立ちすくんでいた。雨粒は次第に一樹の周りを円を描くように回り始め、やがて小さな水の竜巻のようになった。


そして、杖から声が聞こえた。


「ついに見つけた…お前が選ばれし継承者だ」


それは風のようにかすかな、しかし確かに聞こえる声だった。性別も年齢も判別できない、不思議な声。


「誰…誰だ!?」


一樹の問いかけに応えるように、杖の青い宝石がさらに明るく輝いた。


「時が来た…扉が開く…お前は行かねばならない…」


「何を言って…」


一樹の言葉が途切れた。公園の空間が歪み始めたのだ。まるで空気自体が液体のように波打ち、視界の端がぼやけていく。同時に、一樹の足元から青白い光の円が広がっていった。


「何が起きてるんだ…誰か、誰か助けて!」


悲痛な叫びも虚しく、光の輪はどんどん拡大し、一樹を包み込んでいった。そして、最後の光が彼を覆った瞬間、佐藤一樹の姿は青空公園から消えた。杖と共に。


公園には何事もなかったかのような静けさが戻り、ブランコだけが風に揺られて軋む音を立てていた。ただ、樫の木の下のベンチには、一樹の忘れていった数学の参考書だけが、ページが風にめくられながら、取り残されていた。

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