第3話 夫の動揺、妻の忘れごと
その後は、服屋に行った。数年ぶりに帰還したリードリヒには普段着が不足しているに違いないと思い、私は若者向けの服をたくさん彼に勧めた。
けれど、リードリヒは派手で恥ずかしいと言って購入を断固拒否し、代わりに私に余所行きのワンピースを買ってくれた。
「今までこういう可愛い服、贈ったことなかったから」
照れくさそうな声を出すリードリヒが可愛くて、私はそれだけで胸がいっぱいになった。
もちろん、新しいワンピースも嬉しくてたまらない。流行に疎い私は知らなかったが、今若い女性の間で流行っているらしいふんわりと軽いデザインの洋服だ。色が淡い桃色でちょっと気恥ずかしいが、リードリヒが「絶対に似合う」と言ってくれたので、着るのが楽しみになった。
さらにその後は町の中央地区へ移動し、生まれて初めて歌劇を見た。
こんなところに劇場があることすら知らなかった私は、美しく舞い踊る演者たちに感動してしまい、見終わる頃には舞台を拝み倒していた。
「すごかったわよね、リードリヒ! 歌姫の圧倒的な歌唱力! 音楽の妖精みたいだった!」
「ディーナが喜んでくれてよかった。僕、ずっと君と来たかったんだ」
「いじらしいわねぇ、あなたは!」
兜の隙間から注がれる、温かい眼差しが幸せでむず痒かった。
チケット売り場の売り子や、歌劇を観に来ていた他のお客からは、「あの人どうしたのかしら?」という奇異なる視線を向けられていたものの、気にせずデートを楽しめるくらいだ。
(なんだか、私ばっかり愛を感じてる気がする……。私の愛、リードリヒにちゃんと伝わってるのかしら……)
彼の【兜が脱げない呪い】はいつ解けるのだろう。彼に私の愛をもっともっと感じてもらうには、いったいどうしたいいのだろう――。
悩みながら劇場を出ると、オレンジ色と群青色が溶け合うような空が広がっていた。どこか寂しさを覚えるような、胸がざわつく色だった。
「いつの間にかこんな時間だね……。寒くない?」
「ぜんぜん平気」
この辺りは昼と夜の寒暖差が激しい。私はリードリヒの兜の隙間から漏れ出る白い息を見つめながら、薄っぺらなエプロンドレス姿の自分を見下ろした。寒いと思う前に家に帰った方が良さそうだ。
「リードリヒ……手、繋いでもいい……?」
私が控えめな声で問うと、リードリヒは兜からガシャリと耳障りな音を立てて頷いた。
リードリヒの手は、お世辞にも温かいとは言えなかった。冷たいわけでもない。ただ、よく見ていると、以前よりも逞しくなったと思う。剣をたくさん握った手だ。
「結婚前は、恥ずかしくて手なんて繋がなかったのにね」
「そうだね……。僕もディーナも照れ性だったから……」
私はリードリヒの手を握る手に力を込めた。リードリヒは私の手を強く握り返してはくれなかったが、「今は離したくないと思ってるよ」と言葉で伝えてくれた。
夕闇の迫る帰り道を二人で手を繋いで歩きながら、私はリードリヒに徴兵命令が下った日のことを思い出した。
それは二人でささやかな結婚式を挙げた翌日のことで、私の鍛冶屋の二階に運び込んだリードリヒの荷物を解く暇すらなかった。
「ディーナが打ってくれた防具があれば、きっと生きて帰れる」
そう言った彼のために、私はその日から数日間工房に籠り、鎧一式を用意した。私が作れる一番の最新式の装備だった。
彼が五体満足でまたここに戻って来られるように。二人で幸せな結婚生活が送れるように。まさか、その兜が呪われてしまうとは思わなかったが――。
「これからはずっと一緒よ。リードリ――」
「アレ? もしかしてリードリヒか?」
私の言葉をかき消したのは、正面から歩いて来た男性だった。くすんだ金髪と同じ色の顎鬚を蓄えた背の高い中年男性だ。町の自警団の装束だろうか。かなり軽微な鎧を身に着け、腰に剣を差している。
「ご友人?」
「あ……えっと……エドガー……」
私がリードリヒを見上げると、彼は戸惑った様子で口ごもっていた。苦手な相手なのだろうかと、私は不安な顔で言葉を探すが、エドガーと呼ばれた男性はおかまいなしだった。
「その声、やっぱそうじゃねぇか! なんだよその兜! 顔を隠すほど、俺たちに会いたくないのかよ」
「違う…頼むから、今は放っておいてくれ」
「んなこと言ったって、心配だろうがよ。ダチが古臭い兜被ってふらふら歩いてたら、気でもやっちまったのかと思うだろ」
「……そんなことないよ」
リードリヒが困っている。
私は彼の声だけでなく、手足が震えているのを感じ取った。リードリヒは、一刻も早くこの場から立ち去りたそうにしているのだ。
(妻の私が助けなくちゃ……!)
「ちょっとあなた! 古臭い兜だなんて、失礼ね! 私が作った最新式よ? それにこの人がこれを被っているのは、【兜が脱げない呪い】のせいで――」
「あんまり落ち込むなよ、リードリヒ」
(あれ……)
私は、リードリヒとエドガーの間にズイと割り込んだ。だがエドガーの視線は私を捉えることはなかった。まるで私が空気であるかのように、彼はリードリヒだけを見つめていた。
「剣が握れなくったって、人生が終わったわけじゃねぇ。奥さんとの約束は守れなくなったかもしれねぇが、別の生き方だって許され――」
「ごめん……黙ってくれ……頼むから……!」
リードリヒは唐突に深く頭を下げ、エドガーは驚いて言葉を失っていた。リードリヒが纏うピリついた空気はなんだかとても息苦しい。今にも泣き出しそうな震え声が痛々しく兜から漏れ出ていた。
リードリヒのただならぬ様子に戸惑いを隠せないエドガーは、「わ……分かったよ。またな……」と言い残して去って行った。
「リードリヒ……」
「びっくりさせてごめん。今日は帰ろうか……」
喧嘩でもあったのだろうかとざわめく周囲を視界から追い出すように、リードリヒは私を兜の穴から見つめていた。エメラルド色の瞳が潤んでいる。よく見えなくても、妻の私には分かった。
それだけじゃない。彼の隠し事にも気が付いてしまった。
(そっか……私、大事なことを忘れていたのね)
「うぅん……、一緒には帰れない。私は送るだけ……あなたとは帰る場所が違うから」
私がひょいっと空気を持ち上げる仕草をすると、リードリヒの兜がふわりと宙に浮いた。「わっ」と、不意に彼が驚いて出した声は、青年のものよりももっと低いものだった。
「ディーナ……」
「すっかり大人になったのね。リードリヒ」
私の前に立つ彼の顔は若者のそれではなく、その面影を濃く残した三十代の男性だった。
「騙してごめん……俺……」
「うぅん。謝るのは私の方。待ってあげられなくてごめんなさい」
あぁ、胸が痛い。
ずっとずっと、待っていたはずなのに。
私は愛する人を遺して逝ってしまったのだ――。
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