その翡翠き彷徨い【第14話 光と闇の】

七海ポルカ

第1話



「リュティスさま、このコインは何ですか?」




 本棚の影から顔を覗かせたメリクにリュティスは眉を吊り上げた。

 講義の場所が魔術に関するものを集めた資料室だから悪いのだ。

 言った本を取って来いと走らせる度に、余計なものを本棚から持って来るメリクを何度叱り飛ばしただろう。

 メリクなどと余計な話を極力したくないリュティスは、分かりやすく額に青筋を立てる。

 それを見たメリクがびくっと身体を強張らせ怯えたような顔を見せたが、彼はそうっと手にしたコインを掲げてみせた。


「珍しい紋が入っていると、思って……」


 険しい顔のまま、メリクの見せて来たコインに目をやったリュティスは、一瞬だけ目を細めたようだった。

 色褪せたその黄金色の光が脳裏を掠めたのである。


「この裏の三つ首の竜は闇の神竜【ネファリウス】ですね。表は光の神【シア】なのに……なんでだろう?」


 人の世では昼と闇は相対するものだが、魔術の世界では光と闇の間には明確な狭間が与えられている。

 だからこそ、こうして光の領域のものと闇にあるものを相対的に配置するというのは、魔術的な観点から非常に珍しいモチーフなのだった。


「知らん」


 メリクはえ、と顔を上げる。

 リュティスが魔術の知識で知らないと、口にするのを初めて聞いたのだ。

 見遣ったリュティスが不機嫌そうな顔で手元の本に視線を戻している。

 彼はメリクの方など少しも見もしないで、しかし的確にリュティスへ向けて、例の刃のような言葉を投げつけて来たのだった。


「ここで余計な口を叩くなと何度言えば分かる、メリク。

 さっさと本を持って来てここに座れ。

 それとも私が好き好んでこの不愉快な時間を過ごしているとでも思っているのか」


 メリクは大きく首を振ると、急いでコインを側の本棚に置き、言われた本を手に取り席に戻って来た。


 リングレー地方出身であるメリクの、至純なサンゴール式の発音とは明らかに異なる響きを帯びた、詠唱を目を閉じて聞きながらリュティスは押し黙っていた。

 時折メリクが間違える言葉の羅列を、瞬時に訂正しているうちに頭に不意に思い浮かんだのだ。



『まるで光と闇のようだな』



 それが記憶の鍵だったのか、箍が外れたかのように思い出す。

 耳に入れた言葉も、あの光と闇のコインをここへ持ち込んだのが誰だったのかも。

「……ここまでです」

 魔術書を読み終えたメリクが、恐る恐る分厚い魔術書を下ろし、向かい側に足を組んで座るリュティスの方を伺った。

 すると彼の長い指が神経質そうに机の上を叩いているのが見えて、メリクはギクリとした。

 一年共に過ごせばいかにリュティスとは言えども、少しくらい分かって来るものだ。


 これはリュティスが非常に苛立っている時の癖である。


 メリクはドキドキしながら、自分に対しての苛立ちなのだろうかと考えた。

 いつもに比べれば躓かずに詠めた方だと思っていたのに。

 

 魔術の簡略化されていない詠唱の文言は、メリクは好きだった。

 特にリュティスが詠むとそれはとても綺麗で、まるで歌のように耳に入って来る。


 一つ一つの意味を辞書で調べてみても、そこには深い意味が隠されていてとても好きだ。


 でもどうやら書く言葉は同じなのだが、リングレーとサンゴールでは発音が大分違うため、その修正にメリクはいつも時間がかかる。

 発音を間違えないよう一言一言をゆっくり丁寧に読むから、この基礎魔術理論の時間はいつもよりもずっと講義の時間が伸びてしまう。

 そんなわけでリュティスの前で詠唱を詠むのはまだまだ苦手だ。

 いい加減な詠み方をすれば怒られるし、意味を噛み砕かず音だけで覚えようとしても叱られる。でも時間をかけすぎるとリュティスを長く待たせすぎているような気がして、またそれも気になって集中出来なくなるのである。


 そんなわけで詠唱を読んでいる時は、自分にリュティスが苛立つ理由が多々思いつくだけあって、メリクは変な冷や汗をかいて、色々なことをつい考えてしまった。

「あの……」

 何も言わずに黙っているリュティスにそっと声をかけると。


「今日はこれで終わりだ。出て行け」


 突然言われてリュティスは目を瞬かせた。

 頭の中で言われたことを一度反芻すると、ようやく意味が追いついて来る。


 最初の頃はここで何故と問い返して、リュティスの不機嫌に油を注いでいたものだが、今となってはメリクはリュティスがこんな風に拒絶を見せた時は、黙って直ちに従うのが何よりなのだということを学んでいた。

 もたもたしているとまた手を上げられるかもしれない。


 感情により魔力が大きく脈動するリュティスにはよくあることだった。


 普通の人間がこういう対応をされると、この第二王子をひどく気まぐれのように感じるだろう。だが感情の快、不快が表層に顕われるリュティスは自分の心がささくれ立つと、すぐに周りから人を遠ざけるよう処世術が身に付いているのだった。


 今は理性を鋼鉄の壁で固めて、魔力の制御にも非常に長ける魔術師となったとはいえ、明らかに苛立っている自分の側に他人を置くほど、リュティスは【魔眼まがん】の攻撃性を甘く見てはいない。


 メリクは急いで椅子から飛び降りた。

 本を手に抱えて、横を向いたままのリュティスに「ありがとうございました」と深く頭を下げる。それから少しリュティスの表情を上目遣いに伺ったのだが、険しいその気配は一切緩むことは無かった。


 パタパタと足音を急がせて、メリクは部屋を退出していった。


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