03A「数学とナポリタン∞」―主人公側視点―
0 数式は胃袋を満たせるか
昼のチャイムが鳴ると同時に、理科準備室の扉が閉まった。
薄暗い蛍光灯。棚に並ぶフラスコや模型骨格。
「よし、誰も来ない」――そう呟いた奏汰の手には、コンビニの大盛りナポリタンと、銀色に光るBB弾の小袋が握られていた。
《糖質過多。推奨摂取量オーバー》
イヤホン越しにLilithが苦言を呈す。
「今日の実験は炭水化物が主役だ。材料なんだよ」
Lilithは黙るが、UIの端で“苦笑い”に似たアイコンが揺れる。
奏汰は実験台に紙皿を置き、パスタをビーカー洗浄用のプラスチックトレーに流し込む。オレンジ色のソースが化学薬品に見えて、少し滑稽だ。
1 パチンコ式ナポリタン砲
今日の目的は〈距離×粘度×重力〉の即席数理モデル検証――
言い換えれば、「BB弾でナポリタンを遠隔飛散させ、相手の視界を奪えるか」という、ホーム・アローン式トラップの実験だ。
奏汰は机のクランプにゴム製パチンコを固定し、弾受けを深めのスプーンに交換。その皿にBB弾を三粒と、スプーン裏に絡ませたナポリタンを乗せる。
「発射角31度、推定飛距離3.2メートル――Lilith、ログ」
《Recording》
ゴムを引き、放す。
シュッ――BB弾が先行し、その後ろを粘度の高いソースと麺が引きずられ、赤い軌跡を描く。
べちゃり。
対面の白壁に貼った模造紙を深橙に染め、周囲に細かなソース斑が散った。
《命中率75%。粘度分布は予測より広義。修正案──麺を7cmごとにカット》
「補給の手間が増えるな……」
「それ、職員に見つかったら怒られるよ」
振り向けば、真白。
ドアを開けて立つ彼女の顔に、驚きより呆れの色が濃い。
「昼休み全部使って何してるの? その壁、掃除大変だよ?」
「あとでアルコールで拭くって」
だが自分でも、弁解の声が少し弱いのを感じた。
2 友情揺れ、コンマ以下の誤差
真白は白衣を借りてきて奏汰に放り、袖を通してくれと促す。
その手際の良さに、Lilithが《Teamwork Good》と小さくタグを付けた。
奏汰はBB弾の弾倉を詰め直しながら、ふと思う。――昨夜以来、真白と目を合わせると心拍が速まる。鍵に選んだ歌声のせいだろうか。
「Lilith、恋愛確率とか計算すんなよ」
《未指示》と返り、しかしログに“Observation”が走る。
真白は気づかず、ソース跳ねた模造紙を剥がし、水道で流し始めた。
沈黙。
水音と、フラスコが触れ合うガラスの硬音。
奏汰は射出角度を修正しながら言った。
「昨日の歌、ありがとう。セキュリティ、だいぶ強くなった」
「……怖いなあ」
「え?」
「奏汰が“ありがと”って照れずに言うときは、だいたい危険信号だもん」
冗談めかした声なのに、瞳が笑っていない。
真白は濡れた模造紙を握りしめ、指でソースをこそぎ取る。
胸がチクリと疼いた。
「巻き込みたくない」に続く二度目の嘘。
――本当は、歌声が罠の鍵になるなんて言ったら、彼女はもう歌ってくれないだろう。
その罪悪感が、ノイズのように数式へ入り込む。
3 乱流と共振
「もう一度撃つ。今度は麺をカットして――」
奏汰がナイフでパスタを短く刻むと、Lilithが示した推奨カット長より数ミリ長い。
《誤差》
「誤差は美学」
彼が笑うと、真白が眉をひそめる。
「危機管理に“美学”は要らないでしょ」
言葉が刺さり、空気が凍る。
次の発射。
BB弾は弾道を逸れ、ソース塊がフラスコの群れを直撃した。
ガシャン!
ガラス片とソースが床で赤い星屑をつくる。
真白が小さく悲鳴を上げ、奏汰は凍りつく。
《損害評価──フラスコ4本破損。廃液処理コスト+2380円》
冷淡な数値が彼の焦りを煽った。
真白は床に膝をつき、破片を片付け始める。
奏汰も手伝おうとするが、彼女は顔を上げない。
「私、もっと奏汰を助けたいだけなんだけど」
小さな声。
「でも最近、奏汰は“計算の外側”に私を置く。昨日も何か隠してる」
心臓が跳ねる。
Lilithがマイク感度を下げ、背後に退いた。
これは“人間だけ”の会話領域だと判断したのだろう。
4 洟たれる数式
「俺は、怖いんだ」
奏汰の声が震える。
「もし敵が真白を狙ったら。俺のせいで巻き込むのが」
「勝手に守ろうとしないで」
真白の声が震え返す。
「私は“自分で選ぶ”って決めたの。だから鍵に私の歌を選べるんでしょ?」
図星。
奏汰は目を見開く。知られている? いや、直感か。
「そう、だけど――」言葉が詰まる。
恐れより先に、彼女が自分を理解してくれていた事実に胸が満たされる。
――しかしその甘さは罠だ。守りが弱まる。
黎明色の蛍光灯の下、二人の影が重なった。
真白の制服袖にソースが付いたのを奏汰が拭おうと指を伸ばす。
そこでサイレンのようにLilithが囁く。
《Unknown signal. Motion detection: Corridor.》
廊下に人影。誰かが扉窓から実験室内を覗き、そっとカメラを引っ込めた。
真白と奏汰が反射的に扉へ駆け寄るが、足音の主は既に階段を降りていた。
――観測者レム。二人はまだその名を知らない。
5 数式と友情の挟み撃ち
追いかけるより先に、奏汰は廊下の電灯をすべて消した。
夜間照度センサだけが点き、薄い黄白が彼らの影を伸ばす。
「Lilith、フロア図面。出口までの最短経路!」
《計算中――完了》
ホログラムが床に射出され、青いラインが昇る。
だが真白が腕を掴む。
「待って。追わないで」
「でも――」
「今は証拠がない。暴走は敵の思うツボ」
奏汰は歯噛みしたが、掴まれた腕の温度で心が引き戻された。
教室へ戻ると、ナポリタン砲の残骸と割れたガラスがそのまま。
足元のソースが、まるで血痕のように見えた。
奏汰は深呼吸し、ガラス片を慎重に拾い始める。
真白も隣に屈み、破片をバケツに落としていく。
〈カラン、カラン〉
音が二人の呼吸を整え、沈黙は怒号よりずっと強く繋いだ。
6 ナポリタン∞
掃除が終わるころ、昼休みは残り三分。
奏汰はトレーに残った冷えたパスタを見下ろす。
麺を箸でつまみ、ゴムパチンコを解体して再び皿に戻す。
ソースの海に沈む銀色のBB弾が、幻想的に輝いた。
《実験結果:失敗。友情は不確定要素》
Lilithが、いつになく冗談めいたトーンで告げる。
奏汰は笑いそうになり、しかし胸が詰まって顔を伏せた。
真白がふっと息を吹きかけ、皿の縁に∞の記号を指で描く。
「友情も数式も、ぐるぐる回って戻ってくるんだって」
「ナポリタンみたいに?」
「そう。ケチャップの味は変わらなくても、温度が変われば違う料理になるんだよ」
彼女の言葉は奇妙に哲学的で、奏汰は短く笑った。
そして、LilithのUIに真白の∞サインがログとして刻まれるのを見た。
数式と友情の輪は閉じたのか、あるいは開いた無限軌道なのか。
――答えはまだ先。だが、確かに“共に回り始めた”。
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