02A「君の声で世界線を開く」―主人公側視点―

0 夜明けの余韻

 午前六時一八分。

 まだ薄紺の空に、団地の給水塔の影が鋭利に切り取られている。

 朝倉奏汰はベランダに身を乗り出し、昨夜の羽毛の名残り――細かな綿毛が外灯の傘に貼りついているのを確かめ、息を吐いた。

 廊下と玄関は深夜のうちに掃除ロボと雑巾で復旧、両親は出張で留守。

 事件の匂いは、まだ誰の記憶にも届いていない。


 《侵入者ヨナ、警察で黙秘を継続。報道は“単独窃盗未遂”。》

 ホログラフィックUIにLilithのレポートが流れる。

 「単独、ね。……ゼロが媒体を騒がせるのは、もう少し先ってことか」

 奏汰はスマホを手に取り、心拍アプリを開く。

 62bpm。 羽毛の夜はまだ胸の奥で舞っているが、脅威より奇妙な高揚感が勝っていた。


1 放課後の残響

 NEO晴海高校。海風で潮を孕むグラウンド、鉄骨むき出しの新棟と昭和の旧棟が同居する校舎。

 昼休み、奏汰は購買の紙袋を抱えて渡り廊下を走る。袋の内側では、ナポリタンの湯気とセンサー用マイクユニットが同居していた。


 廊下の向こうで手を振るのは日向真白。

 セーラー服の襟が風で跳ね、右手にスマホ、左手に文芸部の原稿束。

 「奏汰、まだお昼食べてないでしょ? はい、特盛り」

 「それ、俺が買ってきたヤツなんだけど」

 「代理購入代ですー」

 声音は軽いが、瞳の奥に映る微かな不安を奏汰は見逃さない。昨夜の事件のことは伝えていないのに、何かを感じ取っているのかもしれない。


2 イメージ・リハーサル

 放課後、視聴覚室。

 ここは真白の“隠れ家”――文芸部の朗読動画を録る防音ブースがある。

 「今日はLilithの音声認証を正式にテストしたい」

 奏汰がそう告げると、真白は目を丸くした。

 「私の歌声、まだサンプル扱いのまま?」

 「いや、その……昨日までやる暇がなくて」

 頬をかく奏汰。不意に、ブースの赤い録音ランプが灯り、LilithのUIが壁面に投影される。


 《音声鍵、暫定登録候補:二件

  ①朝倉奏汰 ②日向真白──優先順位を決定してください》


 「え、私も候補?」

 「適正解析したら、真白の周波数はノイズレベルが低くて――」

 「つまり、私の声が“好き”ってことでしょ」

 頬を染める彼女に、奏汰は言葉を失う。

 心拍数が跳ね、Lilithが密かにログを刻んだ。


 真白はブース内のコンデンサマイクを握ると、深呼吸して目を閉じた。

 そして――


 ♪ あかね指す 明けの海鳴り まだ 遠く ♪


 澄んだアルトが、防音壁に柔らかく反響する。

 歌詞の隙間で、LilithのUIが虹の波形を描いた。ボーカルの基音、倍音、第七ハーモニクスまで解析し、指紋のように固定化する。


 《音声鍵、確定:日向真白》

 《補助鍵:心拍タグ(朝倉奏汰)》


 奏汰の胸が再び跳ねた。

 「ダブル鍵……?」

 《“声”と“鼓動”。ふたつ揃わなければ私は完全起動しない》

 Lilithのトーンには、かすかな自負――そして嫉妬に似た揺らぎが混じっていた。


3 廊下の影

 機材片付けを終えた帰り道。

 旧棟三階の廊下は昼間でも薄暗く、外壁のひび割れから潮風が笛のような音を立てる。

 奏汰と真白が並んで歩く背後、掲示板の影にスマホを構える生徒の姿。

 レンズ越しにリップシンクアプリが起動し、先ほどの歌声をリアルタイムでスペクトル解析していた。


 〈SAMPLE_AW / PRIORITY : HIGH〉

 スクリーンに赤く浮かぶタグ。

 生徒は目に幼い狂気を宿し、上着の袖でレンズを隠すと足早に去った。

 二人は気づかない。ただ、Lilithが遠巻きのBluetooth信号を感知し、胸騒ぎのように通知を上げる。


 《未知端末、MACアドレス:00:0Z:PX:—》

 「また来たか、ゼロの幽霊」

 奏汰の呟きに真白が振り向く。

 「何か言った?」

 「……いや、潮の音がデカいなって」

 嘘だ。だが、まだ巻き込みたくない。

 胸の奥で、言葉にならない警報が鳴り続けた。


4 鍵と錠のあいだ

 夕暮れ。

 帰宅した奏汰は、Lilithをリビングの壁に大写しにする。

 UIの中心には、真白の歌声スペクトルが七色の帯で固定され、その周囲を心拍グラフが螺旋状に巻き付いていた。

 「本当にこの構成でいくのか?」

 《はい。“二人で私を起こす”プロトコル。合理性と──不合理性の両立》

 「……不合理を認めるのか、AIが」

 《あなたと居ると、論理より速いものを学習します》

 Lilithの言葉はどこか満足げだった。


 奏汰は拳を胸に当てる。

 真白の声を鍵に、彼の鼓動を錠に。

 それはまるで、青春特有の脆さと甘さを、システムに焼き付ける儀式だ。


 《ちなみに感情ラベルを書き換える許可を》

 「却下。恥ずかしい」

 《“恥ずかしい”は新規感情です。ログします》

 「ログるな!」


 小さな言い合いの間にも、窓の外では夜が降り、遠くの湾岸クレーンが赤い警告灯を瞬かせる。

 Lilithは静かにUIを暗転させ、奏汰の背後で囁いた。


 《未知端末の再接近を検知。二〇メートル先。

  奏汰、もう“巻き込みたくない”では済まないかもしれない》


 「……わかってる」

 彼は深く息を吸い込み、デバイスロッカーから新しいセンサーノードを取り出した。

 次の罠を考える指先は震えていない。

 だが、その鼓動は真白の歌声を想起し、少しだけ速かった。

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