六ノ六・黄泉戸喫

「……どういうこと?」

 隣の壯須を見て、それから、線路に立ったままの雄憲を見る。彼は着ていた羽織を丸めて小脇に抱えていた。なんだかどろどろと汚れている気がするが、もしかして、あの幽霊電車から降り注いでいた――とまで考えたところで、記憶を掘り起こすのはやめた。

「雄憲、原チャ乗って先帰ってな。そっちにおいてあるから」

瘴気これ、シート汚れないか」

「……井戸水と塩で洗ったらいける?」

「やってみる」

 そんな泥跳ね感覚でなんとかなる代物なのだろうか。壯須が放ったスクーターの鍵をキャッチした雄憲に、思わず「一人で大丈夫なんですか?」と尋ねる。

「大丈夫だよ。雄憲は常世の影響を受け付けないから」

「……祓い屋さんだから?」

「いや、俺は神社の子だから」

「ああ……」

 つまり、実家が神社だから祓い屋稼業を営んでいたのか。それだけでは説明できないことも色々とある気がするが、とりあえずは納得して、志羊は線路の方へ手を伸ばした。雄憲が片眉を上げて、近寄ってくる。

「あの、助けに来てくれて、ありがとうございました。あとで絶対お礼します。……気を付けて」

 彼を見下ろすのは初めてで、なんだか変な感じだ。雄憲は真顔のままこくりと頷いて、線路の上を戻って行った。

 ホームの上で立ち上がると、壯須がこちらを見ている。

「……志羊ちゃんは、雄憲の心配するよねえ」

「え、だって、平気なのか平気じゃないのかわかんなくて……」

 表情がずっと変わらないから、なにを考えているのかどうしてほしいのかわからないのだ。それよりも気になっていることがあって、「というか、」と話を切り出した。

「やっぱりここは常世なんですか? 影響って、受けたらどうなっちゃうの……?」

「ここは常世じゃないよ。現世との……簡単に言うと、あの世とこの世の境目。」

 死者の世界と生者の世界。その狭間であるこの場所は、例えば生者が死んで常世に行く時や、死者が生まれ変わって現世に戻って行く時の通り道だ。

 本当ならここに留まる存在なんていないのだが、時折常世から迷い出た死者や、現世から迷い込んでここで肉体を失った生者が、どちらの世界にも帰れずにここで永遠の時を彷徨っている。それが綻びを通って現世に出て行ってしまったとき、〝霊〟として人の目には映るのだ。

が、それだよ」

「……え?」

 志羊は呆然とした。

 いつも見ているって、だって、自分には霊感なんてものはないのに。驚く志羊に、壯須は続ける。

「気付いてなかったわけじゃないでしょ。毎回占い館の前ですれ違う人も、この間の心霊物件で戸波さんと一緒にいた女性も、人じゃないよ」

「……うそ……」

 そんなはずはない。少し変なところはあったけど、二人とも普通の人間だった。

 否、本当は志羊も、違和感には気付いていた。

 中華街を訪れるたび、曜日も時間もバラバラなのに、全く同じ場所で同じ人とぶつかりそうになるなんてありえない。それに、志羊以外誰もその人を避けていなかった。

 朋子のことだってそうだ。二人も戸波も、完全にいないもののように扱っていた。

「雄憲さんに……叫んでるの聞こえませんかって聞いたら、わからないって……」

「あいつは気配がわかって触れるだけで、見えないし聞こえないから」

「でも、壯須さんは? 壯須さんは普通に……」

 あの時のことを思い返す。朋子の話に反応したり、話しかけていたのは志羊だけだった。

 思えば彼女は気付いたら全く別の場所にいたり、突然様子がおかしくなったりしていた。帰り際、車に乗り込む戸波に無視されて、怒り狂ったように暴れていたのは、もしかしてあの家から離れることができなかったからではないのか。あの家の呪いは欠陥建設などではなく、彼女による霊障だったのではないか――。

「志羊ちゃんにはあの人、どう見えてた? たぶん、僕が見ていた〝モノ〟とは全然違う姿なんじゃないかな」

「〝モノ〟って……」

 志羊には普通の女性に見えた。壯須には、人に見えていなかったのだろうか。

「感知してることに気付くと喜んでついてきちゃうことがあるから、本当なら知らないふりをしなきゃいけないんだよ」

「わ、私なんにも……全然、普通の人だと……」

「そう見せられてたんだよ。志羊ちゃんが優しいから」

――『〝ついて〟来ちゃったんだね。君が優しそうだから』

 初対面のとき、壯須に言われた言葉が、脳裏に蘇った。志羊を騙すためにそれらしいことを言ったのかと思っていたが、もしかしてあれも本当のことだったのだろうか。「そ、それは」と狼狽えた声を出す。

「私が見分けられないから、ついてくるってことですか? 普通の人だと思って話しかけただけで……?」

「それも多少はあるけど……でもさすがに引き寄せすぎだと思うんだよね。もっとなにか理由が……」

 話をしている途中で、突然ぽぉん、と、大きな音が流れ始めた。駅構内のアナウンスだ。

 身を固くして辺りの音と気配を探る。

『髮サ霆翫′譚・ま? 蜊あ縺ェぁいですから、お下ク九′繧�、お下贋ク九′り、おさ縺贋ク九′繧�お下がりくだ贋ク九′繧』

 ぞ、と背筋が凍る。古いスピーカーのような間延びした音。そこにキィキィと鼓膜を引っ掻く不快な音声が混じり、耳を塞ぎたくなるような気持ちの悪いものになっている。

「やだ、なんか気味わる……」

「……?」

「壊れてるんですかね、なんか同じォ菴募コヲ繧�ぃたりして……」

「っ!? 志羊ちゃん!」

 鳥肌の立つ腕をさすりながら言うと、壯須に肩を掴まれた。真剣な顔をしている。

「これが聞き取れてんの?」

「え? だから、邱夊キッ縺ォ鬟帙�霎シ繧薙〒縺上□縺輔>って……」

 口に出してから、「あれ?」と呟く。どうしてそんなことをアナウンスするのだろう。

「志羊ちゃん、もしかしてこっちに来てからなにか口に入れた!?」

 壯須に掴んだ肩を揺さぶられながら、頷く。確かに駅で電車を降りたあと、少し落ち着こうと思って、4縺斌sj?縺を買って飲んでいた。二口ほど飲んだだけでまだ鞄の中に入っている。

 そのことを話すと、壯須はひゅ、と息を呑んだ。ショックを受けたような、真剣な、険しい表情。

「……志羊ちゃん、黄泉戸喫ヨモツヘグイは知らなかった?」

「え、な、なんですか」

「生きたまま常世へ来てしまった人間が、こちらの食べ物を口にすると、現世へは帰れなくなるんだよ」

 言葉を失った。そういえば映画で見たことがある。異界に迷い込み、容易された美味しそうな食事を我慢できずに食べてしまった人は、正気も人間の姿も、帰るすべも奪われてしまうのだ。

 壯須の手を縋るように握る。動揺で頭が働かない。泣きそうな声が出た。

「えっ、え、私どうなっちゃうんですか」

「厳密には〝黄泉の国の釜で煮炊きした食べ物を口にすると〟ってことだけど……」

「わ、私、戻れないの……?」

 壯須が目を泳がせる。志羊が力を入れすぎた手も離さずに握り返してくれていたが、言いづらそうなその表情が、物語っていた。

 じわ、と視界が滲む。

 せっかく二人が来てくれたのに。あんなわけのわからない怪異と戦って、助け出してくれたのに。

 もう元の世界に戻れないんだ。

 目を伏せた拍子に頬を転がった涙を、少しカサついた指が拭った。後から後からこぼれ落ちるのを、全部掬ってくれる。

「方法がないわけじゃない、けど」

 瞼を上げる。気付くと壯須は志羊の頭に顔を寄せていて、額同士がもう少しで触れそうな距離だった。

 近すぎて、涙が邪魔して、表情が見えない。低く囁く。

「……ごめん。後で殴っていいから」

「、え」

 呟こうとした彼の名前は、塞がれた唇に吸い込まれた。


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