六ノ四・「どこ行くの」
しばらくは足元ばかりを見つめて、黙々と足を踏み出していた。志羊がふと顔を上げたのは、なんか、なにかが変だな、と感じたからだ。
見上げると、空にはちゃんと三日月と星が瞬いている。線路の上は灯りが少ないから、街中にいるよりずっと綺麗に見えた。
両側に聳えるフェンスの周りは雑草が生い茂ってるようで、虫の鳴き声が絶えず聞こえていた。虫は平気だが、飛び出して来られるとちょっとあれなので、志羊は真ん中から逸れずに一心に歩いている。
はじめ、周りの雰囲気に違和感がある、と思った。しかし、違う。風向きや空気が変わったということはないし、なにかの気配を感じるわけでもない。夜空もおかしくない。
警戒するように辺りをきょろきょろと見回して、はたと気付いた。
音がおかしい。虫の声にノイズが混じっていた。
リーリー、ジリリリ、ギィギィ、という鳴き声の合唱。それが、ぶつりと途切れて同じところばかり繰り返したかと思えば、逆回しのように潰れて捻れて背筋を粟立て、そしてざらついた音で鼓膜を削る。
気持ちが悪い。音の大きさも上がったり下がったりを繰り返している。録音した音を加工して流しているようだった。しかしどこか特定の箇所から聞こえているということはなく、確かに〝辺りで鳴いている虫〟の聞こえ方なのだ。
気がおかしくなりそうで、ほとんど走るように歩を進める。
その時だった。
「どこ行くの」
人の、声。思わず足を止める。
悲鳴を挙げたりしなかったのは、知った声だったからだ。というより、さっき聞いたばかりの、待ち望んでいた声だったから。
振り返る。
「壯須さん!!」
いつもの中華服に、長い三つ編みのおさげ。両手はポケットに突っ込んだまま、こて、と首を傾げる。
彼の姿を見つけた志羊は、すっかり安心して駆け寄った。改札の向こうの暗さにも、おかしな虫の音にも怯えきっていたはずなのに、壯須が来てくれた、それだけで、もう大丈夫だと思える。
「どうしてこんなに早いんですか? というか、なんでそっちから」
彼は線路上、志羊の背後に立っていた。てっきり志羊が向かった先で合流するものと思っていたが、そういえば線路上を逆戻りしてみることは、彼に連絡していなかったのだった。さっきの駅に着いてから、志羊を探して追い掛けて来てくれたのだろうか。
「どこ行くの」
感情を抑えたような壯須の声に、「あ……」とばつが悪そうに呟く。駅で待っててと言われていたのに。
「ごめんなさい、勝手に動いて」
「どこ行くの」
「……?」
「てにうご いて」
彼の方へ踏み出していた足が、止まる。
壯須は平坦な声で、「ごいて」と繰り返した。
「ごめんなさい。かって ウ蜍輔> 行くの。うごいて。おいで」
「え、あの……」
「どこ行くの。ごめんなさい。どこ行くの。どこ行くの。」
「どこ行くの。どこ行くの。どこ行くの。どこ行くの。おいで。おいで。おいで。おいで。」
「おいで。おいで。おいで。おいで。おいでおいでおいでおいでおいでおいでおいおおおおおおおいでおいでおいでおいでおいで」
これ、マズいやつだ。後退りながら、志羊は思った。
たぶん、返事をしても、目を合わせてもいけなかった。
(どうしようどうしようどうしよう、やっちゃった)
志羊が、壯須の言いつけを守らなかったから。じわ、と涙が滲む。
頭の中で二人の名前を呼び続ける。左手首に着けた、壯須のブレスレットをぎゅっと握り締める。
目を逸らしたら、きっとその瞬間に連れて行かれる。それでも本能が背を向けて逃げ出したがって、踵を引いた、その時。
壯須の――顔をした〝なにか〟の――背後に、人影が見えた。
頭一つぶん大柄な体躯。拳を思い切り振りかぶる。
そして、目の前の何者かに向けて、それを振り下ろした。
――グシャッッ!!
スイカが潰れたような嫌な音。
壯須だったものはフェンスまで殴り飛ばされて、ガシャン!!と大きな音を立てた。
志羊は顔を伏せる。フェンスに叩き付けられた〝それ〟が、おおよそ人とは思えない壊れ方をしたのを、見てしまった。
背後から襲撃したその人物は、その後を追いかけて、勢いを付けて再び殴りつける。
長身で隆々とした体。今日はいつもの着流しではなく、袴に羽織を着ている。砂利の上で、雪駄が軽い音を立てた。
「ゆ、雄憲さん」
名前を呼んだ声は頼りなくか細かったのに、雄憲はちらりとこちらを見て、軽く手を挙げる。挨拶なのかなんなのか、声を出さなかったのでよくわからなかったが、とにかく今度こそもう大丈夫、と思えて、志羊はへたり込んだ。
あの雄憲は本物だ。志羊を安心させるような言葉をなにも言わないのが、その証拠に思えた。
雄憲は顔面の潰れたそれにもう何度か拳を振り下ろして、それから志羊の方へ走って来た。座り込んでしまった志羊の腕を引っ張り上げて、「走れ!」と短く声をかける。
二人は一も二もなく走り出した。フェンスのそばでぐちゃぐちゃになったものは、見るかげもなく混じり合って、生き物としての原型を失っていた。〝それ〟が、駆け出す志羊の背中に向かって、まだ声を発するのだ。
「どこ、い、っくの、どこい、くの」
走りながら、息切れのような悲鳴が出る。
「ゆっ、ゆ、雄憲さんっ」
「ん」
「な、なんですかあれ!?」
雄憲は志羊を気にして走りながら、後ろをちらと横目で見やる。普通の人間なら、どころか、普通の生き物なら、彼に全力で殴られればただでは済まないはずだ。
「さぁ……振り返るなよ、死ぬぞ」
雄憲は、袴と雪駄で全力疾走している最中とは思えない平然とした顔で言った。
だって、でも、そんなこと言ったって、〝あれ〟がもう付いて来ているのだ。
「どこいくの。どこいくの。」
ボソボソと壊れたように呟き続けている。後ろから追いかけて来るそれは、様相が変わっていた。
壯須の顔をしていた〝部分〟がぐちゃぐちゃに捻れて千切れかけて、それが巻きついて癒着した異様な電車が、志羊達の後ろを走っていた。いつの間に姿を変えたのだろう。もうどこからどう見てもバケモノだ。
「どこ行くの。おいで。おいでおいおどこおいでおおおおお行くおい」
電車の先頭におかしな角度でへばりついた顔が、ずっと喋っている。どうしてあんなものが壯須の声に聞こえていたのだろう。もう不快な奇声でしかなかった。
走りにくい敷石の上で必死に足を動かしていた志羊だったが、枕木を踏み外した拍子に、バランスを崩して倒れ込んでしまう。
「あっ、!」
角の尖った砂利が、膝に刺さる。痛い。起き上がらなきゃ。もうすぐ後ろに迫っているのに。
立ちあがろうと地面に付いた手が、不意に掴み上げられた。強引に引っ張られて、肘と肩が痛む。転んだ志羊を、雄憲が引き上げてくれたのだ。立ち上がるのを待たずに、そのまま抱え上げられる。
抱き上げて、というには荷物っぽい抱え方だったが、志羊が自分で走るよりずっと速かった。ウエスト周りに、志羊の脚よりも太い腕がぐるりと回っている。
「ご、ごめんなさいっ」
どこに掴まればいいか迷って、結局首と肩のあたりにしがみついた。衿は着崩れそうで触れなかったし、腕も背中も、志羊の手には大きすぎるのだ。
そうして走ってもらっている間に、背後から呼ぶ声はまたおかしな変化を遂げていた。「おいで」とほとんど叫ぶような声に、甲高い電車の走行音が混じり、大量の虫が飛んでいるようなブブブブという羽音が空気を揺らしている。
もはや声なんて呼べるものでもない、気持ちの悪い異音だ。耳を塞ぎたい。
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