三ノ四・なにもなかった
「ックシュ、ん」
小さなくしゃみが聞こえた。
「……僕がいない間にいちゃつくのやめてくれる?」
すっかり耳慣れた声。カンフーシューズの軽い足音。ガサガサとビニール袋が鳴る。日常の音だ。
振り返ってドアの方を見ると、壯須がコンビニの袋を下げて、懐中電灯を持って、玄関口に立っていた。驚いたり、警戒する様子はなさそうだ。
足元に目をやるが、ドアの影にはなにもない。引きずるような足音も、ざわざわと心臓に迫るようないやな感じも、なくなっていた。
「……っ、は……」
ほう、と息を吐く。雄憲の顔を見上げると、安堵の色も見せずに相変わらずの無表情で、志羊を見下ろしていた。きっと志羊が怖がっていた時も、彼はずっとこの顔だったのだろう。
一気に緊張が解けると共に、雄憲に肩を支えられ、彼の体に思い切り抱き付いていることに気付いた。
「ひゃあ!? ちっ違、違いますごめんなさい」
奇声をあげて飛び退くように離れる。全身が熱いのは雄憲の体温が高かったからだろうか。
「ていうか今、そこの廊下に……壯須さん大丈夫でしたか!?」
「え? なにが?」
怪訝そうに言う壯須は、なにも見なかったのだろうか。外で火の玉が飛び回っていたのを。あの頭のようななにかが、転がっているのを。
「そんなことより見て、カワイイちゃんいたよ」
部屋に入ってレジャーシートの上にコンビニ袋を置いた壯須は、腕になにかを抱えていた。懐中電灯を持った手首に袋を下げていたので、なにかと思ったら、片腕が塞がっていたようだ。
それが黒くて毛むくじゃらの丸いものだったので、一瞬体を引いたが、すぐに気が付く。さっき顔を見てしまいそうになった〝なにか〟ではない。丸い毛玉からひょこ、と三角耳が出てくる。
「あ! 猫」
壯須に抱かれて志羊達をきょろきょろと見ているのは、黒猫だった。知らない人間二人に覗き込まれているというのに、逃げるでもなく大人しく抱かれている。
「ッくし、ほら、コレ」
壯須が指先に摘んでいたものを受け取る。薄いビニール袋に入れられて、端にはガムテープが貼られたビラ。ライトのそば、明るい方へ持っていく。
「……『迷い猫探しています』?」
「その写真、この子じゃない?」
手書きしてコピーしたらしい貼り紙には、迷子の猫の特徴と写真が乗っていた。それを見るに、確かに同じ小柄な黒猫のように見える。
黄色い首輪をつけていると書いてあるので、壯須の腕の中の猫の顎の下を探ると、明るい色の首輪をつけていた。色は暗くてわからないが、『がぶ』という刻印も、貼り紙の猫の名前と一致している。
「まさか……毛玉とか未確認生物とかっていうのは……」
「こいつかね?」
壯須が猫の顔を覗き込んで、くし、とくしゃみをした。そういえば彼は猫好きなのにアレルギーを持っている、と言っていたのではなかったか。
「飼い主さんに電話してみましょうか」
「ウン。志羊ちゃんかけてもらっていい?」
「え? 代わらなくて大丈夫ですか」
「大丈夫じゃない」
鼻声で言うが、猫を渡す気はないらしい。
貼り紙の書かれた番号に電話をかけると、すぐに初老の女性が出た。猫や首輪の特徴で確認すると、やはり彼女の探している飼い猫で間違いなさそうだ。電話口で涙声になってしまった飼い主は、志羊に感謝の言葉を繰り返す。
「私どもは夫婦二人暮らしで、子供がいないものですから、がぶちゃんは実の子供も同然なんです。本当になんと感謝を述べたらよいか……」
「いえ、私はなにも……知人が人に慣れた猫を見つけたと言って連れてきただけなんです」
「そうですか。知人の方にもお礼をしなくては……あっ、がぶちゃん、怪我とかはしていませんか?」
「見た感じなんともなさそうですよ」
手足は触られるのが嫌なようで引っ込めてしまうが、痛がる様子もなさそうだ。
「よかった……うちの子砂の上とかですぐ転がっちゃうんですよ。擦り剥いちゃうからやめなさいっていつも言ってるのに」
「あ、よく見たら葉っぱだらけ」
「やだごめんなさい、どこ探検してきたのかしらね」
飼い主と話しているうちに、志羊はなんとなく、このアパートの噂の真相がわかった気がしてきていた。
『毛玉の塊』『未確認生物』と言われていたものはやはりこの黒猫だったのだ。腕にすっぽり収まる大きさの丸い佇まい、そしてニャアと鳴き声も上げない大人しい性格。暗闇で見れば、得体の知れない〝なにか〟に見えても無理はないだろう。さっき志羊が見たものも、もちろんこの猫に違いない。
そしてもう一つ、『アパートのそばで子供が行方不明になり、探している夫婦がいる』という話。それもこの猫の飼い主夫婦ではないだろうか。きっと彼女がこの調子で「うちの子」と呼び、人間の子供に対するように接している話をするおかげで、話が広まるうちに〝猫がいなくなった〟から〝子供がいなくなった〟に変容してしまったのだ。
電話を切った志羊は、安心して猫の頭に手を伸ばす。
「もー、本当に悪霊かと思いましたよ。お騒がせな猫ちゃんですねえ」
「なんの話?」
「壯須さんが買い物に行っている間に、色々あって……」
志羊は火の玉や物音、そして黒い毛むくじゃらのことを彼に話した。雄憲は口を挟まない。
「壯須さんも戻ってきてたなら聞こえたと思うんですけど……ドアをめちゃくちゃに叩きまくるような音、聞こえませんでしたか?」
「なぁんにも」
「うそぉ……じゃあ、火の玉は? 見てませんか?」
「いや? 草むらにいたのはコイツだけだよ」
それではやはり、壯須の懐中電灯の光だったのだろうか。だとしたら、不気味に飛び回ったり、壁にぶつかるような衝撃があった原因がわからない。
「ニャンコに怖がってあんな悲鳴あげてたの?」
「えっ、私の声は聞こえてたんですか?」
かあ、と顔が熱くなる。幽霊なんて信じていないと断言しておいて、あんなに大騒ぎしていたのだ。あの時は必死だったが、思い返すと恥ずかしいくらいに取り乱していた。
てっきり揶揄われると思ったのに、壯須は心配そうに顔を覗き込んできた。気遣わしげに「大丈夫、ほんと」と呟く。それが意外で、嬉しくて、余計に恥ずかしい。志羊はぱっと体ごと背けて、明るい声を上げた。
「な、なんでもない音をすごい物音に錯覚してたのかもしれません! 心霊スポットに泊まるなんて初めてだから」
「写真は撮れたの?」
「あっ」
尋ねられて、壯須の顔を見て、カメラに目を移す。忘れていた。やばい。
「あぁぁ……火の玉とか撮れてたら……いや、ていうか動画にすればよかった……」
データに残っている写真は、アパートの外観と、一階を探索している時に撮った何枚かだけだ。これで記事になるのだろうか。尤もきちんと写真を撮れていたところで、噂の真相は迷い猫でした、なんて記事を書かせてもらえるかはわからないが。
せめてかわいい猫でも、と壯須の腕の中にカメラを向けた、その時だった。
猫の視線に気付く。黒い目を真ん丸にして、どこかを見ているのだ。
「……がぶちゃん?」
視線の先を追うと、部屋の天井の一角だった。ライトの明かりが届かずはっきりとは見えないが、なにもないように見える。一体なにを見ているのだろう。
壯須と雄憲の顔を見ると、二人も猫と同じ場所を食い入るように見つめていた。やはりなにかあるのだ。視線を戻した時だった。
「……ん?」
初め、黒い水が流れているのだと思った。天井と壁と壁との接地面、その角から、なにかが細く噴き出して、流れているように見えたのだ。
目を凝らす。水ではない。当たり前だ、このアパートは水道もとっくに止められているし、数日間雨も降っていない。
虫でもなかった。壁と壁との繋ぎ目に沿って流れ落ちるように動いていて、それこそ蜘蛛の子を散らすように歩いたりは全くしていないのだ。
志羊は、それが流れているのではなく、ゆらゆらと波打つように蠢いていることにようやく気付いた。
液体ではない――毛?
気付いた瞬間、腕をぐ、と引かれた。壯須だ。
「持ってて」
ずっと離さなかった猫を、志羊に押し付ける。慌てて抱きかかえた瞬間に、視界が大きな手で塞がれた。
「わっ、なに!? 何何何やだなんですか」
ばさ、となにかを頭から被せられる。壯須の持参した毛布だ。
「ちょっと! 一体なんなん、」
猫を気遣いながら毛布を剥がし退けようともがく志羊だったが、
バチンッ!!!
という、大きな音が聞こえて、「きゃあ!!」と声をあげて肩を跳ねさせた。
コンセントがショートするときの、電気を帯びた衝撃音のような音だった。顔のすぐそばで鳴っていたように思う。
猫が威嚇するような唸り声を上げて、志羊の腕に爪を食い込ませていた。怯えているのだ。なににだろう。志羊にははっきりと見えなかった、壁伝いに蠢くあれに、だろうか。恐ろしくなって、安心させるように顔の周りをふわふわと撫でる。
「壯須さん? 雄憲さん?」
名前を呼ぶが、返事はない。代わりに頭の上に手が置かれる感覚がする。
「シッ。声出すなよ」
吹き込むような囁き声。毛布越しに抱き締める腕。あたたかい。さっき雄憲に肩を抱かれた温もりを思い出して、耳が熱くなった。
きゅ、と口を引き結ぶ。
そうしているうちに、部屋の中ではくぐもった声が聞こえはじめた。
(……お経?)
雄憲の声だろうか。低く、唸っているようだ。平坦にぶつぶつと呟いていた華と思えば、うねりをあげるように大きくなったり小さくなったりする。台風の夜に風の音を家の中で聞いているような、そんな不安を感じた。
怖い。見えないのが怖い。時々抱かれる腕に力がこもる。縋るように、その感触に集中した。
バタンバタンと、大きな音が聞こえていた。手当たり次第に家具をひっくり返しているような、暴力的な音だ。この部屋には家具なんてなにもないのに。
お経を唱える声が一段と大きくなった。大人数で唸っているような錯覚を覚える、気持ちの悪い響き方。声、なのだろうか。本当に雄憲が唱えているのだろうか。
なぜか外を覗きたくて、仕方なくなった時だった。
バチン!!
再びの、空気を震わせる衝撃。打撃音。
飛び上がりそうになる。
そして周囲は突然静まり返った。
地面を踏み締める音や衣擦れさえも聞こえない、完全な無音だ。
どこで、何が起きたのだろう。もう動いてもいいのだろうか。
もぞ、と身じろぎすると、頭の上で小さなくしゃみが聞こえる。そして毛布越しに抱き竦めるように回されていた腕が、ふと緩んだ。
恐る恐る顔を出す。
壯須も雄憲も、さっきと変わらない位置に立っていて、平然とした顔でこちらを見た。志羊は呆然と、二人の顔を見比べる。
「……なんですか……? 今の……」
「なにが?」
「なにがって」
部屋の中も、なにかが変わった様子はない。あんな音がしたのに、なにか壊れたりもしていなかった。
「だって今」
「あ、ゴメン。超デカい蛾いた、志羊ちゃん虫平気なんだったね」
「は……蛾?」
そんなはずはない。だったらさっきの衝撃は、攻撃的な音は、壁伝いに蠢く〝なにか〟は、一体なんだったというのだ。
天井の隅を見る。暗闇は大人しく、ただそこにあるだけ。腕の中の黒猫も、何事もなかったように前足を舐めている。
「なにもなかったし、帰ろうか」
壯須が言う。
なにもなかったのだ。彼がそう言い切るのなら、そうなのだろう。
少なくとも、志羊の理解の及ぶことは、なにもなかった。
一つも納得はできないが、なにを言うこともできずに、新米オカルト記者の初めての心霊スポット取材は幕を下ろしたのだった。
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