第2章 焙煎の音、夜を越えて
夜が深まるほど、焙煎機の音が心臓みたいに響く。
ゴウン、ゴウン──。
眠る街の奥で、それだけが確かなリズムを刻んでいた。
カウンターの上には、昼に出した豆袋。
“エルディア産・深緋ブレンド”。
さっきの客が飲んだものと同じ銘柄だ。
「……あの人、やっぱり普通じゃなかったですよね。」
私が口を開くと、マスターは手を止めずに答えた。
「気づいたか。」
「はい。目が……なんていうか、“見えてないものを見てる”感じで。」
マスターは小さく笑う。
「言い得て妙だな。あの瞳は“境界”を越えた奴の目だ。」
「境界?」
「この世界と、向こう側。お前はまだ知らなくていい。」
「……え、いや、気になりますけど。」
「気になっても、豆は焦がすなよ。」
「うわっ、ずるい!」
会話の軽口と焙煎の音が重なり、夜の店に小さな生命感が宿る。
それでも胸の奥では、あの旅人の姿が焼きついて離れなかった。
*
翌朝。
喫茶美月はいつもより早く開店していた。
外の風が涼しい。街の掲示板には、“魔導評議会の布告”と書かれた紙が貼られている。
『北方封鎖線、今期も維持。境界渡航者の報告を義務化』
「……マスター、これ。」
「見た。面倒な時代になったな。」
「昨日の人も、“渡航者”ってことですか?」
「さぁな。ただ、渡ってきたなら、相当の理由がある。」
マスターはコーヒーの粉を均しながら、淡々と答えた。
その横顔が、どこか遠くを見ているようで、私は息をのむ。
「……マスターも、昔、渡ったことあるんですか?」
一瞬、手が止まる。
「そんな昔話、誰に聞いた。」
「勘です。」
「はは。いい勘してる。」
短く笑って、また焙煎の匂いが店に満ちていった。
*
昼すぎ、店はひと段落していた。
私はノートを広げて、新しいブレンドの案を考えていた。
“瑞稀ブレンド”。
昨日のお客が残した言葉が頭を離れない。
──護られている感じがする。
護る味、とはなんだろう。
苦味の奥に、柔らかい温度。
そういう一杯を、私は淹れたいと思った。
「おい。」
マスターが呼ぶ。
「はい?」
「そのノート。客に見られるなよ。」
「え?別に変なこと書いてませんけど。」
「想いを文字にすると、時々“誰か”が拾う。」
「……は?」
「ここは境界に近い。店の中で考えたことは、全部どこかに届く。」
「え、それ、怖いんですけど!」
「怖がるなら、やめとけ。だけど続けるなら、覚悟しろ。」
その瞬間、店の奥の魔石ランプがチリ……と光った。
「今、光りましたよね!?」
「……来たな。」
カラン、コロン。
ベルが鳴った。
息を呑む。
昨日の客──いや、少し違う。
黒いローブの下から覗く瞳は、あの人よりも若く、鋭い。
「お、お客様……?」
「ここが“喫茶美月”ですか。」
声が硬い。
魔導の匂いが、風に乗って入ってくる。
「ここに、“境界を渡った者”が来たはずです。」
「……!」
私とマスターが視線を交わす。
「さて、どう答えるかだな。」
マスターはあくまで穏やかに笑い、カウンターに指をトントンと打ちつけた。
その音が、見えない合図のように店全体へ広がる。
扉の魔石が淡く光り、空気がピンと張り詰めた。
「ここはただの喫茶だ。」
「そうですか。でも、匂いが残ってます。」
客は鼻先で空気を嗅ぐようにして言った。
「昨日、誰かと会いましたね。」
「……どうしてそれを。」
「護符の匂いです。境界の向こうでしか手に入らない。」
背筋が凍る。
客は一歩前へ。
腰のホルダーから、細い魔導杖を取り出した。
「ここに“渡航印”が残ってる。証拠です。」
「落ち着け、若造。」
マスターが低く言う。
「杖を向けるのは、客に出すスプーンだけにしとけ。」
「警告しました。協力を拒むなら、拘束します。」
──パチン。
マスターの指が鳴った瞬間、魔石灯が一斉に明滅した。
カップが震え、焙煎機が静かに止まる。
「ここの結界、誰が張ったと思う?」
「なっ……!?」
「二十年前、評議会の本部が壊れた時の残り火だ。」
「そんな馬鹿な……!」
客の魔導杖が青く光る。
しかし、光はすぐに霧のように溶けた。
「外のルールは、この店の中では効かねぇ。」
「っ……!」
沈黙。
やがて、杖が床に落ちた。
若い魔導士は肩を落とし、震える声で言った。
「……あの人を、探してるだけなんです。」
「昨日の客か。」
「姉なんです。」
──息が止まった。
マスターが目を細める。
「なるほど。道理で似てるわけだ。」
「お願いです。何か、知ってるなら教えてください。」
彼は懇願するように頭を下げた。
私は思わず一歩前に出た。
「昨日、その人は“護られてる感じがする”って言ってました。」
「……そう、言ったんですね。」
「はい。すごく穏やかで……でも、少し寂しそうでした。」
「やっぱり……あの人だ。」
青年の声が震える。
「姉は、戦で行方不明になったんです。三年前の“境界戦争”。」
「戦争……」
胸の奥に、重い響きが落ちる。
マスターが静かに言った。
「戦が終わっても、渡航者は消えねぇ。向こうに置いてきたものを、探し続ける。」
「だから私は、姉を──」
その瞬間、店の奥で焙煎機が勝手に動き出した。
ゴウン……と鈍い音。
魔導ランプが赤く点滅する。
「……マスター、これ。」
「境界反応だ。向こうの気配が近い。」
青年が顔を上げる。
「姉が……!?」
「落ち着け!」
焙煎機の炎が一瞬にして青に変わる。
豆が爆ぜ、香りが一気に広がった。
それと同時に、空気が歪む。
──カラン。
音がした。
扉が、ひとりでに開いた。
そこに、昨日の旅人が立っていた。
焦げ茶の髪。凛とした瞳。
手には、ひとつの小さな魔導石。
「……ここに、来ると思ってた。」
青年が息を呑む。
「姉さん……!」
彼女はゆっくり微笑んだ。
「おかえり。……まだ終わってないのね。」
焙煎の香りが、熱を帯びて流れた。
マスターが低くつぶやく。
「──さて、厄介な夜になりそうだ。」
魔導ランプの光が、再び揺れた。
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