第2章 焙煎の音、夜を越えて


夜が深まるほど、焙煎機の音が心臓みたいに響く。

ゴウン、ゴウン──。

眠る街の奥で、それだけが確かなリズムを刻んでいた。


カウンターの上には、昼に出した豆袋。

“エルディア産・深緋ブレンド”。

さっきの客が飲んだものと同じ銘柄だ。


「……あの人、やっぱり普通じゃなかったですよね。」


私が口を開くと、マスターは手を止めずに答えた。


「気づいたか。」


「はい。目が……なんていうか、“見えてないものを見てる”感じで。」


マスターは小さく笑う。

「言い得て妙だな。あの瞳は“境界”を越えた奴の目だ。」


「境界?」


「この世界と、向こう側。お前はまだ知らなくていい。」


「……え、いや、気になりますけど。」


「気になっても、豆は焦がすなよ。」


「うわっ、ずるい!」


会話の軽口と焙煎の音が重なり、夜の店に小さな生命感が宿る。

それでも胸の奥では、あの旅人の姿が焼きついて離れなかった。


 



翌朝。

喫茶美月はいつもより早く開店していた。


外の風が涼しい。街の掲示板には、“魔導評議会の布告”と書かれた紙が貼られている。

『北方封鎖線、今期も維持。境界渡航者の報告を義務化』


「……マスター、これ。」


「見た。面倒な時代になったな。」


「昨日の人も、“渡航者”ってことですか?」


「さぁな。ただ、渡ってきたなら、相当の理由がある。」


マスターはコーヒーの粉を均しながら、淡々と答えた。

その横顔が、どこか遠くを見ているようで、私は息をのむ。


「……マスターも、昔、渡ったことあるんですか?」


一瞬、手が止まる。


「そんな昔話、誰に聞いた。」


「勘です。」


「はは。いい勘してる。」


短く笑って、また焙煎の匂いが店に満ちていった。


 



昼すぎ、店はひと段落していた。

私はノートを広げて、新しいブレンドの案を考えていた。


“瑞稀ブレンド”。

昨日のお客が残した言葉が頭を離れない。

──護られている感じがする。


護る味、とはなんだろう。

苦味の奥に、柔らかい温度。

そういう一杯を、私は淹れたいと思った。


「おい。」


マスターが呼ぶ。

「はい?」


「そのノート。客に見られるなよ。」


「え?別に変なこと書いてませんけど。」


「想いを文字にすると、時々“誰か”が拾う。」


「……は?」


「ここは境界に近い。店の中で考えたことは、全部どこかに届く。」


「え、それ、怖いんですけど!」


「怖がるなら、やめとけ。だけど続けるなら、覚悟しろ。」


その瞬間、店の奥の魔石ランプがチリ……と光った。


「今、光りましたよね!?」


「……来たな。」


カラン、コロン。

ベルが鳴った。


息を呑む。

昨日の客──いや、少し違う。

黒いローブの下から覗く瞳は、あの人よりも若く、鋭い。


「お、お客様……?」


「ここが“喫茶美月”ですか。」


声が硬い。

魔導の匂いが、風に乗って入ってくる。


「ここに、“境界を渡った者”が来たはずです。」


「……!」


私とマスターが視線を交わす。


「さて、どう答えるかだな。」


マスターはあくまで穏やかに笑い、カウンターに指をトントンと打ちつけた。

その音が、見えない合図のように店全体へ広がる。


扉の魔石が淡く光り、空気がピンと張り詰めた。


「ここはただの喫茶だ。」


「そうですか。でも、匂いが残ってます。」


客は鼻先で空気を嗅ぐようにして言った。


「昨日、誰かと会いましたね。」


「……どうしてそれを。」


「護符の匂いです。境界の向こうでしか手に入らない。」


背筋が凍る。

客は一歩前へ。

腰のホルダーから、細い魔導杖を取り出した。


「ここに“渡航印”が残ってる。証拠です。」


「落ち着け、若造。」

マスターが低く言う。

「杖を向けるのは、客に出すスプーンだけにしとけ。」


「警告しました。協力を拒むなら、拘束します。」


──パチン。

マスターの指が鳴った瞬間、魔石灯が一斉に明滅した。

カップが震え、焙煎機が静かに止まる。


「ここの結界、誰が張ったと思う?」


「なっ……!?」


「二十年前、評議会の本部が壊れた時の残り火だ。」


「そんな馬鹿な……!」


客の魔導杖が青く光る。

しかし、光はすぐに霧のように溶けた。


「外のルールは、この店の中では効かねぇ。」


「っ……!」


沈黙。

やがて、杖が床に落ちた。

若い魔導士は肩を落とし、震える声で言った。


「……あの人を、探してるだけなんです。」


「昨日の客か。」


「姉なんです。」


──息が止まった。


マスターが目を細める。

「なるほど。道理で似てるわけだ。」


「お願いです。何か、知ってるなら教えてください。」


彼は懇願するように頭を下げた。

私は思わず一歩前に出た。


「昨日、その人は“護られてる感じがする”って言ってました。」


「……そう、言ったんですね。」


「はい。すごく穏やかで……でも、少し寂しそうでした。」


「やっぱり……あの人だ。」


青年の声が震える。


「姉は、戦で行方不明になったんです。三年前の“境界戦争”。」


「戦争……」

胸の奥に、重い響きが落ちる。


マスターが静かに言った。

「戦が終わっても、渡航者は消えねぇ。向こうに置いてきたものを、探し続ける。」


「だから私は、姉を──」


その瞬間、店の奥で焙煎機が勝手に動き出した。

ゴウン……と鈍い音。

魔導ランプが赤く点滅する。


「……マスター、これ。」


「境界反応だ。向こうの気配が近い。」


青年が顔を上げる。

「姉が……!?」


「落ち着け!」


焙煎機の炎が一瞬にして青に変わる。

豆が爆ぜ、香りが一気に広がった。

それと同時に、空気が歪む。


──カラン。


音がした。

扉が、ひとりでに開いた。


そこに、昨日の旅人が立っていた。


焦げ茶の髪。凛とした瞳。

手には、ひとつの小さな魔導石。


「……ここに、来ると思ってた。」


青年が息を呑む。


「姉さん……!」


彼女はゆっくり微笑んだ。


「おかえり。……まだ終わってないのね。」


焙煎の香りが、熱を帯びて流れた。

マスターが低くつぶやく。


「──さて、厄介な夜になりそうだ。」


魔導ランプの光が、再び揺れた。

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