第5章 手紙の余白
魔導市の風は、この街の風よりも少し乾いている。
空の青が高く、塔の影が道の真ん中に細く伸びる。
市場の屋根は金色の布で覆われ、香料屋の棚には無数の瓶が並んでいた。
開けるたびに違う匂いが立ちのぼり、
それだけで空気が音を立てて色づくようだった。
私は、瓶の中に顔を寄せながら、
この街の“音のない旋律”を聞いていた。
風に運ばれる香りが交わる瞬間、
遠くの鐘が、ゆっくりと街を包む。
――あの街の風も、こんなふうに混ざっていた。
研修が始まって、もう一月が過ぎた。
毎日、新しい香料と、新しい人。
覚えきれないほどの名前と、配合と、温度。
でも、夜になるといつも思い出すのは、
あの街のパンの焼ける音と、窓から見える灯りの並びだった。
「香りは、記憶の言葉よ。」
そう言ったのは、講師の老婦人だ。
香りを“調香魔法”と呼ぶこの場所では、
それぞれの感情を香りとして閉じ込めることを学ぶ。
彼女は、瓶を一つ手に取りながら言った。
「人が忘れたくない瞬間は、匂いの中に隠れる。
それを再現できる者が、香術師と呼ばれるのよ。」
私はその言葉を聞いて、
思わず、自分の胸元の小瓶を見た。
街を出るときにもらった“風のパン屑”――
あの人が包んでくれた、焼きたてのクロッカンの欠片だ。
瓶を開けると、まだ少しだけ香りが残っていた。
甘さと焦げのあいだに、ほんのわずかな塩のような匂い。
それは、涙と笑いの中間みたいな味がした。
夜、寮の部屋でランプを灯す。
光は小さく、影は深い。
机の上に広げた紙の上に、
今日も手紙の下書きを書き始めた。
――
こんばんは。
こちらは今日、春の嵐が吹きました。
香料の棚が倒れて、瓶がひとつ割れてしまいました。
でもその香りが混ざったとき、みんな笑ってたんです。
“偶然の香りも作品になる”って。
この街では、風が運ぶものは“失敗”じゃないみたいです。
むしろ、風の気まぐれを大事にする。
そういう考え方、少し好きです。
最近、パンの香りを再現してみました。
あなたの店の香り。
でも、どうしても再現できませんでした。
たぶん、あの街の空気がないと、
完成しないんだと思います。
また、帰ります。
まだ少し先になるけど。
そのとき、もう一度、あの風の中で話したいです。
――
書き終えて、インクを乾かしながら、
窓を開けて夜風を吸い込んだ。
遠くの街灯が滲み、
香料の匂いがかすかに混ざる。
この街の風も悪くない。
でも、私が“帰りたい”と思う風は、あの街の風だった。
◇
同じ頃。
通りの向かいのパン屋では、
いつもより少し早くオーブンの音が響いていた。
焼き場の奥には、開封された手紙。
文字の形がまだ新しく、
インクの香りがわずかに残っている。
私は手紙を読み返しながら、
生地をこねていた。
“偶然の香りも作品になる”
その言葉が、指先の動きと重なった。
ミスを恐れないで混ぜてみる。
粉の分量を少し変える。
スパイスをひとつ、増やしてみる。
香りがふっと変わる。
それは、どこか彼女の笑い声のように感じられた。
昼下がり、喫茶亭のマスターが顔を出した。
「手紙、届いたんだってな。」
「はい。……元気そうでした。」
「“偶然の香り”って、いい言葉だな。」
マスターは小さく笑いながら、
窓辺のカップを指でなぞった。
「風任せってのは、案外むずかしい。
でも、風がないと、珈琲も香らない。」
私は頷いて、
オーブンから取り出したパンを皿に乗せた。
「これ、新しい配合です。星砂を少し増やしてみました。」
「……挑戦したな。」
マスターは笑って、
そのまま焼きたてを口にした。
「……お前の店、ますます風の味がする。」
私は少し照れながら、
「たぶん、あの子が吹かせた風です。」と答えた。
マスターは目を細めてうなずいた。
「なら、悪くない風だ。」
その夜。
パンを焼いたあとのオーブンの余熱がまだ残る中で、
私は手紙の返事を書いた。
――
こちらは相変わらず風が強いです。
あの喫茶亭のマスターも元気で、
珈琲に“星砂”を混ぜてみたらどうか、なんて言ってました。
たぶん、やらないと思いますけど。
パンの新しい香り、できました。
“偶然の香り”って名前をつけました。
あなたが笑ってくれそうだから。
また風に乗せて送ります。
こっちは夜になると少し冷えるので、
無理しないように。
風邪を引かないでください。
――
書き終えて、封を閉じる。
インクが乾くまでの間、
ランプの灯りを指で遮っては透かして、
その影の揺れを見つめた。
あの子のいた時間と、今の静けさ。
どちらも確かに“この街”の一部だった。
◇
数日後。
魔導市の寮に、小包が届いた。
封を切ると、ふわりとパンの香りが広がる。
包み紙の端に、粉砂糖が少しこぼれている。
香りを吸い込み、思わず目を閉じた。
――帰ってきた。
その瞬間、胸の奥で何かがやさしく震えた。
香りは記憶を呼び覚ます。
でも、それだけじゃない。
過去を“現在”に変える力がある。
私はパンをひと口かじり、
紙の裏にそっと一文を書いた。
「偶然の香り、ちゃんと届きました。」
夜。
窓の外では、砂嵐が街を包んでいた。
でも、香りは消えない。
布団の上に置いたパンの匂いが、
まるで風そのもののように部屋を巡っていく。
私は瓶の中の風のパン屑を取り出し、
指先でそっと砕いた。
もう匂いはほとんどしなかったけれど、
その感触だけで、心が満たされていくのを感じた。
「……香りは、記憶の言葉。」
先生の言葉が頭をよぎる。
きっと、言葉のほうが香りに近いのかもしれない。
人の声や文章や仕草も、全部香りのように消えていくけど、
消えたあとに残る“気配”がある。
それが優しさのかたちなんだと思った。
彼女は机に向かい、また新しい瓶をひとつ用意した。
ラベルには、丁寧に文字を書く。
《風の街の香り》
瓶の中に、自分の魔力をほんの少し注ぎ込む。
香料の粒が光を帯び、瓶の中でゆっくりと舞う。
“帰るための香り”――
そう思いながら、蓋を閉じた。
◇
春の終わり。
街の風が少しぬるくなり、
通りには新しい匂いが混ざり始めた。
パン屋の前の木にも、小さな花が咲く。
その朝、郵便鐘が鳴った。
差出人は、魔導市の彼女。
小包の中には、ひとつの瓶と短い手紙。
――
この香りを“風の街”に返します。
きっと、風が運んでくれるはずです。
だから、瓶は開けずに、窓辺に置いてください。
そのほうが、街じゅうに混ざりますから。
また会える日まで。
――
私は瓶を窓辺に置いた。
朝の風がカーテンを揺らし、
瓶の中の光がゆらゆらと踊る。
香りがほんの少しだけ漏れ出して、
パンの匂いと混ざった。
その瞬間、街の空気が少し変わった気がした。
通りの向こうの喫茶亭のドアが開く。
マスターがいつものようにカップを磨きながら、
ふと外を見上げる。
風が通り抜ける。
パンと珈琲、星砂と眠り草、
そして旅の街の香り。
すべてが重なって、
ひとつの音になったように思えた。
私は静かに呟いた。
「……おかえり。」
その声は、風に溶けて、
街の屋根の上を、遠くまで運ばれていった。
──その日、街の香りは、
たしかにひとつになった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます