向かいの喫茶亭
菊成朔
第1章 向かいの喫茶亭
「ありがとうございました。」
黄昏時は客足がゆるやかになる。
一番の賑わいは朝の市と昼の腹ごしらえどき。
それを過ぎれば、あとはひっそり、空気の抜けたような時間が流れていく。
カウンター奥の魔力ランプがぼんやり灯り、壁に長く影を落とす。
焼き上げたフェルム小麦の香ばしい匂いが鼻をくすぐり、魔獣卵とシュガースパイスを練り込んだ新作を、木製の陳列台に並べ直す。
手元で軽く指を鳴らすと、小さな保温結界が静かに商品を包み込んだ。ほんのり白い光が一瞬揺れて、すぐに消える。
オーブンの奥から、再び「チリ」と小さな魔導ベルの音が鳴った。
熱気と焼き上がったパンの香りがゆるやかに広がる。私は一度深呼吸して、焼き場からレジを振り返った。
──本当は、その場で食べるお客さんの顔を見たいのだけど。
今はこうして、焼き場とレジを行き来するだけで、精いっぱい。
外に目を向けると、喫茶亭の窓際に見慣れたシルエットがあった。
誰かがまた、うちの商品を片手にしている。
それだけで、不思議なあたたかさが胸の奥に差し込む。
……そろそろ、うちにも座席を増やせばいいのに。
ドアについたベルが、カランと小さな音を立てる。
「……いらっしゃいませ。」
夕方の風がひやりと流れ込み、少し冷えた空気が足元をくすぐった。
目を向けると、よく見かける女の子の姿。
肩までの黒髪、ふわりとした獣毛ニット、少し猫背で手元を見ている。
その手には、新作のカスタードとくるみのクロッカンがひとつ。
「あの……これ、とても美味しかったです。」
彼女はそう言い、小さく微笑んだ。
いつもは無言で買っていく子だったから、思わず声を詰まらせてしまう。
「……本当ですか?ありがとうございます……!」
自分でも驚くくらい、声が弾んでいた。
「向かいの喫茶亭で食べてたら、店主さんが“どこで買ったの”って聞いてくれて。教えてもいいですか?」
「えっ……もちろんです、ぜひ!」
そう返すと、彼女はこくりとうなずいて、クロッカンをもうひとつトレーに載せた。
少し沈黙が流れる。彼女は視線を泳がせながらぽつりと言った。
「……なんか、この店、ずっと前からある気がしてたんです。」
「え? うち、まだ3年くらいですよ。」
「え……あ……そっか。」
少しだけ恥ずかしそうに、目をそらす。
私は笑って、ふっと口をついて出た。
「専門学校を出てすぐ始めたので、たぶん“馴染んでる”だけかもしれません。」
「あ、そうなんですね……。なんか……わかる気がします。あっちの喫茶店もそうですけど、こう……変わらないものがあるって、落ち着くというか。」
彼女の声はどこか遠くを見ているようだった。
「……変わらないものって、大事ですよね。」
自分の声が、思いのほか静かに響いた。
そのとき私は、焼き菓子を作るというこの日常が、誰かにとっては“帰る場所”の一部になっているんだと、あらためて感じていた。
その日、閉店間際に向かいのマスターがふらりと現れた。
いつも通り、無口で無愛想な表情のまま。
「……クロッカン、あるか?」
「あ、はい。ちょうど焼き立てです。」
彼は2つだけ取り、無言で会計を済ませる。
が、帰り際、ふとこちらをちらりと見て、ほんの一瞬だけ口元を上げた。
「……いい匂いだった。」
ただそれだけ。
でも、そのひとことが、不思議と胸に残った。
数日後。
あの女の子がまた来た。クロッカンを見つめ、少し迷ったあとで、
「今日は三つください。」
「おすそ分けですか?」
尋ねると、彼女は微かに赤い頬で笑った。
「……マスターに、ひとつ。あとは自分のご褒美。」
なんて素直な言葉だろうと思った。
誰かに何かを贈りたくなる気持ちは、きっと、こうして芽生えるんだ。
「いいですね。」
そう返すと、なんだか自分の声が、いつもより少し柔らかかった。
喫茶亭の窓際。
彼女が本を読んでいる姿を見かけることが増えた。時折、誰かと話していることもある。
そのテーブルには、うちのクロッカンや、バゲットの小さな切れ端が置かれていた。
私はその姿を焼き場からそっと見やり、ふと笑みがこぼれる。
──誰かの日常に、自分の作ったものが入り込んでいく。
それはきっと、とても贅沢なことなんだと思う。
ある日、マスターがまた現れて、
「……頼みがある。」
と、不器用に切り出した。
「うちのレジ横に……クロッカン、置かせてもらえないか。」
鋭い目元が、一瞬だけ気まずそうに揺れる。
「最近、うちの客……あれ食べながらコーヒー飲んでるのが増えてさ。気になってる人、多いみたいで。」
私は思わず笑って、心の中で深く頷いた。
「ぜひ、お願いします。」
胸の奥が、じんわり熱くなった。
数日後、喫茶亭のカウンター横に、うちの焼印ロゴが付いた小さな籠が置かれた。
「ご自由にどうぞ(おひとつまで)」という手書きのカードが添えられている。
そして、うちの店のレジ前にも、新しい小さなポップ。
《向かいの喫茶亭さんのコーヒー割引券、お渡ししてます。》
その字は、ちょっと歪んでいて、だけどとてもあたたかかった。
窓の外、夕暮れの光がガラス越しににじむ。
誰かがうちの商品を持ち、誰かが向こうの店で味わっている。
きっとこれからも、そんな日々が続いていく。
レジ横のクロッカンの隣に、彼女が置いていった小さな紙片がある。
「このお店が、どっちも好きです。
どっちかだけじゃ、ちょっと足りないから──
どっちもあってくれて嬉しい。」
私はもう一度その文字を見て、そっと息をついた。
「さて……今日も、焼くか。」
そう言いながら、魔導オーブンの方へ歩いていった。
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