第16話 たまの名を 焼きて護らむ 紅の香


 焼け残った雪が、まだくすぶっていた。


 志貴の放った炎が悪鬼の群れをさらい、黄泉の層はいったん静まり返っている。

 だがその静寂は、安堵を許さない種類のものだった。

 焼けた雪の下から、まだ何かが身じろぎしている。沈黙の奥で、別の理が身を起こそうとしていた。


 志貴は布都御霊を支え棒にして立っていた。

 骨の内側まで熱が染み込み、右肩の痣が火傷のようにうずく。

楼蘭の肩越しに見えた黄泉の風景が、視界の端でじわりと滲んでいた。


「……次は、俺の番だ」


 楼蘭がそう告げて前へ出た。


 紅の矛の熱が、楼蘭の背中を淡く照らす。

 志貴の黒髪が炭のように揺れ、その白い横顔に細い影を落とした。


「志貴、お前はもう限界に近い」


「まだ、立てる。あんたひとりでやるんは――」


 言い募ろうとしたとき、足元の焼け土が、ふっと沈んだ。


 志貴の視界から、楼蘭の姿がすべり落ちる。

 焼けた雪も、焦げた骨も、ひと呼吸もたたぬあいだに遠ざかっていく。


 足場はたしかにあるのに、踏んだ感覚が消えた。

 矛が指先からほどけ、水面に沈めたような冷たさが掌を包む。


 次の瞬間、志貴はまったく別の場所に立っていた。


 ***


 泉だった。


 天からこぼれ落ちたような、水の光景。

 だが、黄泉のど真ん中にあるはずのない澄み方をしていた。

 現の黄泉から一枚ずれた、理だけの層のようにも見える。


 砂は白く、椰子に似た木々が、乾いた風にそよいでいる。

 水面は鏡のようになめらかで、ひとつのさざ波もない。

 足首まで浸かった水は冷たくも熱くもなく、温度の感覚そのものを奪っていく。


 楼蘭の気配が、どこにもない。

 焼けた白炎も、鋭い刀の香りも、この場からは完全に消えていた。


 代わりに、舌の奥へ乾きが張りついている。

 喉がひび割れ、骨の髄まで砂を詰められたような渇きだ。

 泉の水を一口含めば、この渇きはたやすく癒える――そんな確信だけが、やけに鮮明だった。


 水面に影が映る。


 志貴自身のものではなかった。


「飲みたいのか」


 声がした。

 空気を震わせず、直接耳の奥を叩くような声だった。


 志貴は、音のした方を振り向く。

 水面の上に、ひとりの女が立っていた。


 白い髪。血を薄めたような赤い瞳。

 顔立ちは整っているのに、どこにも体温がない。

 皮膚の色も、筋肉のつき方も、人の骨格をなぞりながら、どこか一線を踏み越えている。

 肉の実感だけ抜け落ちた、魂の残響のような輪郭だった。


 志貴の背骨が、そこだけ外気にさらされたみたいに冷えた。

 身体の方が先に震え、記憶の方がそれを追いかけようとして、途中で途切れる。


 知っている。

 だが、いつ、どこで、どうやって――そこだけが思い出せない。


 女は水面を踏み、音も立てずに距離を詰めてくる。


「君の香、やけに目立つ。何か号を持っているのかな?」


 志貴は、答えなかった。


 黄泉で問われたときの危うさを、宗像の子は骨に刻まれている。

 名や号は香の芯であり、魂の柄であり、刃だ。むやみに差し出すものではない。


 黙り込んだ志貴を見て、女の唇が、わずかに歪む。


「……利口だね」


 微笑みと呼ぶには温度が低い。


「さっきまで一緒にいた影なら、もうここにはいないよ。切り離しておいた。君の香だけが、欲しかったから」


 あまりにも自然な口ぶりだった。


 楼蘭が、この場に連れてこられなかったということ。

 その事実を当然の処理として告げる声音に、志貴の腹のあたりがきゅっと縮む。


「君は王なのだろう?」


 再び問われる。


 志貴は胸の真ん中に重石を載せられたような息苦しさを覚えながらも、その重さごと声を飲み込んだ。


 女は肩をすくめ、代わりに別の問いを投げる。


「では、こう問おう。汝、王たるに足るか」


 足元の水がわずかに震えた。

 問答は、そのまま儀式にもなりうる。


「香もまともに扱えぬ未熟が、王などと」


 女の声は淡々としている。

 火を煽るでもなく、ただ傷の上に塩を置くみたいに、言葉だけを重ねてくる。


「血を流したか。魂を削ったか。命を、誰かのために投げ出したことがあるか」


 志貴の胸の奥が、ひゅう、と細く鳴る。

 さっきまでの戦いの熱が遠のき、布都御霊の重ささえ頼りなく感じられていく。


「穢れ知らずの王など、影法師にすぎない。器であるはずがない」


 女の指先が伸び、水面を裂いて志貴の胸元を狙った。


「やめて」


 志貴の声が、ほとんど反射で先に出た。

 自分の指を噛み切り、じんわりにじんだ血を胸に擦りつける。

 焼けるような痛みが、皮膚を通って意識をひき戻す。


 滴が一粒、女の頬にはねた。

 白い肌のその部分が、じく、と爛れる。


 女のまなざしが揺らいだ。


「……規格外だというのか」


 志貴の血を、泉の水が嫌っていた。

 透明だった水が、女の足元から少しずつ赤黒く濁り始める。


 志貴は、指先の震えを押さえる。

 宗像の名を持たされた日、父が言った言葉を思い出す。

 名は枷であり、守りであり、自分で選び直すための柄でもある、と。


 誰かに許されて与えられた道具ではない。

選び取って握るかどうかは、自分の側にしかない。


「わたしは、宗像志貴」


 名乗りは、祈りに似た響きを帯びていた。

 震えは混じっていたが、言葉は途中で折れなかった。


「宗像の火を継いだ。この名の持ち主は、わたしや」


 胸に塗りつけた血の熱が、少しだけ落ち着きを取り戻させる。

 自分の香を、自分で肯定する。

 その行為が、外からの否定を焼いていく。


「この名と、この香で、“わたし”を赦したんは、わたしや」


 女の顔が、はっきりと歪んだ。

 笑いとも嗤いともつかない表情がほどけ、その下にむき出しの何かが覗く。


「梅の名などに、いくらの意味もない」


 女の足元で、泉がさらに濁る。

 透明だった水が泥へと変わり、さざ波が赤を含み始めた。


「君もいずれ知る。理の檻を超えた者だけが、真に王たりえる。香を守っているうちは、檻から出られない」


 水面が泡立ち、景色がひしゃげる。

 女の輪郭が揺らぎ、白い髪が水とともにほどけていく。


 泉そのものが、門だった。


 水の底――黄泉のさらに深い層へ通じる門。


 志貴の足元が裂けた。

 白い砂と椰子の影が遠ざかり、焼けた雪の色と悪鬼のざわめきが押し寄せてくる。


「引きずられへん」


 志貴は、言葉を選ぶ余裕もなく、ひと息で続ける。


「戻ると決めたんや。ここへ連れてこられたとしても、置いていかれても、わたしは帰りたい場所へ必ず戻る」


 宗像の愛おしい香を持つ男のもとへ。


 その決意を合図に、泉が音もなく爆ぜた。


 ***


 黄泉の理だけの層から、現の地面へと押し戻された。

 焼けた雪の匂いが、小さな咳みたいに戻ってくる。


 志貴の足は、さっきと同じ黄泉の地を踏んでいた。

 焦げた骨の影。崩れた悪鬼の殻。

 だが、ひとつだけ違うものがいる。


 白い布をまとった何かが、空から舞い降りていた。


 人の形をしている。

 しかし、首の角度がどこかおかしい。

 皮膚の下を流れる血管が透けて見え、骨と骨のあいだに闇が挟まっている。


 さきほど泉で見た女と、同じ赤い瞳。

 白い髪は水をしぼったあとみたいに重く垂れ、布の裾から、黄泉の泥が滴っている。

 さっき志貴の心を揺さぶった声と同じ理が、今度は骨と肉の奥から滲み出ていた。


 堕ちた王。


 黄泉に巣くう、落ちた王の残骸。


 そういう言葉が、志貴の背骨の内側で形をとる。

 器が壊れ、理を裏切り、香を捨てたあとのなれの果て。

 王という座から滑り落ちた者の終着点。


「さがれ」


 志貴が息を呑むより早く、風が割れた。


 楼蘭だ。


 白炎の匂いとともに、彼の姿が志貴の前へ滑り込む。

 さっきまでと同じ黒衣に、同じ刀。

 だが、香の層が薄い。

 いつもの、あの刺すような冷たい密度が戻っていない。


「こいつは俺が相手する」


 楼蘭は、志貴に背を向けたまま告げた。


 白い布の何かが、わずかに首を傾げる。


「面倒な、白の千年王だね」


 声は女のものと酷似している。

 泉で志貴に話しかけた存在が、そのまま骨と布の塊になったような響きだった。


「やられっぱなしなわけ、ないだろ」


 楼蘭の刀が、低く鳴った。

 その音は、香の代わりに彼の理を帯びている。


 踏み込みは速い。

 斜めにずらした重心から、真横へすべるような剣筋。

 泰山の山道を駆け下りる風のような動きだ。


 だが――刃に乗るはずの白炎が、薄い。


 切っ先はたしかに布を裂くのに、肉を断つ感覚がない。

 空気ばかり斬り裂いている。

 志貴には、そこがはっきりとわかった。


「楼蘭、香が……」


「来るな、志貴」


 制止の声は鋭いが、呼吸が浅い。

 白の香の芯が削られている。

 宗像で言うなら、仮面の色だけ残って、中身が欠けているような状態だ。


「削られたのだろう?」


 堕ちた王が笑った。

 布の隙間から覗く口元だけが動いている。


「起座の儀を、どこまで削ぎ落とされた。香の層を三つか、四つか。……泰山も冥府も、よくやる。扱いづらい王は、最初から不完全にしておくに限る」


「黙れ」


 楼蘭の一太刀が、白い布をさらに裂いた。

 だが、手応えはやはり浅い。

 返す刀を振るう前に、白い爪が脇腹を掠めた。


 鮮やかな赤が、黒衣の横から花びらのように散る。


 志貴の身体が、勝手に前へ出た。


「楼蘭!」


 香がふっと揺らぎ、白の気配が薄れる。

 その代わりに、別の香りが立ち上った。


 志貴が幼い頃に一度だけ嗅いだことのある、白い炎の香り。

 父が宗像の屋敷に連れてきた、はにかんだ少年の面影が、鼻腔の奥で蘇る。


 竹林の陰で、照れたように笑いながら、泰介の稽古についていこうとしていた少年。

 楼蘭だと気づくより早く、脇腹の血がその記憶を呼び戻していた。


 その少年は、その後、永らく姿を見せなかった。

 泰山の山へ帰されたと聞かされた。


 今、目の前にいる白の王格が、その少年の続きだ。


 志貴が駆け寄ると、楼蘭は唇の端をわずかに上げた。


「平気だ。俺は、こんな程度で折れん」


 笑みに湿りはあるが、芯は折れていない。

 香の欠け方だけが異様だ。


 白い布の女が、二人を眺めている。


「残念だったな。香を削がれた千年王など、お飾りも良いところだ。泰山の儀式は、まともだった君の刃を鈍らせた」


 志貴には、その意味がよくわからない。

 ただ、楼蘭の背中越しに感じる香の薄さと、堕ちた王の言葉が、不快に噛み合っていた。


「……千年王」


 志貴の声が、自然に零れた。


 楼蘭が、少しだけ横目でこちらを見る。


「俺の正式な称号は、白の千年王・鴈楼蘭だ」


 堕ちた王が面白がるように笑う。


「宗像の子。まだ、わかっていないのか。泰山の白は、もう起座している。香を削られた、半欠けの王としてね。……宗像の紅は、起座すらままならず、君は凍結されて終わる」


 志貴の喉がきゅっと締まり、そのまま別の言葉を押し上げる。


「……わたしが?」


「君が、紅の千年王になることはないよ」


 堕ちた王が、楽しげに告げる。


「それはどうかな。王の刻印を持ち、布都御霊を振るう者。間違いなく、紅の千年王になる」


 楼蘭が短く息を吐く。


「志貴。お前は紅の座に座る。だが今はまだ、座の外側だ。だから、その火はむき出しで、危なっかしいんだ」


 志貴は、返す言葉を見つけられなかった。

 千年王という言葉は、これまで遠いところの話だと思っていた。

 父が語っていた宿命と、目の前の現実が、ようやく線で結ばれかける。


 堕ちた王が、布の裾をひるがえした。


「未熟な白。まだ座を知らぬ紅。いい玩具だ。紅を失う未来を、どちらが先に見せてくれるか」


 その瞬間、黄泉の空気がきしんだ。

 布都御霊が、志貴の掌の中で微かに鳴る。


 ***


 楼蘭の過去は、夜の竹林から始まる。


 泰山の山道を、少女の装いをした幼い子供が歩いていた。

 裾を引きずるほど長い衣。

 肩まで伸ばされた黒髪。

 伏せたままの瞳。


 楼蘭だった。


 千年王として生まれた男子の器。

 その事実を知られた途端、殺される。

 だから、女児として育てられた。


 私、と呼べと教えられた。

 声を細くせよと命じられた。

 わざと、できの悪い子として振る舞えと言われた。


 泰山の政治は、血に敏感だ。

 強すぎる香は、均衡を崩す。

 とくに白の香は、泰山と冥府と宗像、三者の均衡に直接触れる。


 能力のある男児と知れれば、最初に削がれる。命か、香か、そのどちらかを。

 だから楼蘭は、後者を選ばせられた。

 命を守るために、誇りを殺した。


 灯籠の影で、小さな楼蘭は誰にともなく問いかける。


「なぜ、偽らねばならぬのですか」


 両親の返事はなかった。

 ただ、灯籠の火がわずかに揺れただけだ。


 そんなある日、泰山に外様の王がやって来る。


 宗像泰介。

 紅の千年王の系譜を継ぐ王格。宗像の土地を守るために武器を取り続けた男。


 楼蘭は両親に連れられ、その男と非公式に対面した。


 泰介は、楼蘭を見るなり、少しだけ首を傾げた。

 ただの子供を見る目つきではない。

 焔の奥で、何かを評価するような光が揺れる。


「誰も見ていない」


 泰介は、灯籠の火の届かぬ場所に楼蘭を連れ出し、静かに言った。


「隠してるもん、全部出してかかっておいで。

 ここには、君と、僕しかおらん」


 その一言に、七年分の拘束がほどけた。


 楼蘭は、自分の声で名乗った。

 私ではなく、俺と。

 髪を結い上げ、裾をたくしあげ、足場を確かめ、剣を握る。


 一太刀で、竹林が裂けた。


 香が、山肌の石を震わせる。

 白の炎が生まれ、夜の空気を浄化していく。

 泰介はそれを見て、ただ笑った。


「君の両親は賢い。……楼蘭、君が独りで立てるまではこれを見せてはならない。そのかわり、こっそりと宗像へおいで。僕が稽古をつけてあげるから」


 楼蘭は、その夜、初めて自分の魂で息をした。

 誰かの影ではなく、自分自身として。


 だが、その自由は長くは続かなかった。

 宗像泰介が、思いがけぬ早さで命を落としたからだ。


 結果として、楼蘭は起座した。

 白の千年王として、予定より早く立った。


 泰山と冥府の政治が、動く。

 白の千年王をどう扱うか。

 冥府の律と泰山の均衡、その両方に絡まる火を、誰がどこまで握るか。


そして、身内に背を切りつけられる形で、香を削がれた。

儀式の名を借りて、白の核に刃が入れられた。


 冥府の術者が理を調整し、泰山の長老たちが安定化と称して層をそぎ落とす。

 扱えなくなる前に、扱える範囲に収めておく。

 誰にとっての扱いやすさかを問う者はいない。


楼蘭の刃筋は鈍くならなかった。

 けれど、香の密度だけが変わった。

 王としての理の一部が欠けたまま、座に縫いつけられた。


 やがて、密やかに楼蘭は宗像と手を結ぼうと暗躍する。

 そして、失われた香を取り戻すため、宗像公介と一心の手を借り、再度、儀式を行う計画を楼蘭は密やかに立てた。

 だが、その儀式を望まぬ者たちがいた。

 完全に目覚めた白の千年王を、泰山も冥府も持てあましかねないと知っている者たちが、ことのほか多かった。


 楼蘭が黄泉の縁で足元をすくわれたのは、その延長線上だった。


 楼蘭は今、黄泉の層で、削がれた香のまま立っている。


 それでも白の千年王として立っている。

 誇りを捨てて命を守った少年が、今度は命を削って誰かを守る盾として。


 ***


「楼蘭?」


 楼蘭の香が、黄泉の闇にじわりと滲み始めた。


 志貴の背中に、その変化が伝わってくる。

 完全ではない。

 それでも、さっきよりは濃い。


「千年王として、力で、恐怖で統べるしか道はなかった」


 楼蘭がぽつりと言う。

 誰に聞かせるでもなく、しかし聞こえる声で。


「そう生きるしか、鴈には残されていなかった。……後悔はしていない」


 言葉の端に、うっすらと痛みがにじむ。

 志貴には、その痛みが他人事には思えなかった。


 楼蘭の背中に、志貴はそっと手を添える。

 血に濡れた布の上から、骨の硬さを確かめるような触れ方で。


「頑張りすぎや」


 それだけを告げる。


 宗像は敵ではない。

 そう伝えたくて伸ばした手だったが、口から出てきたのは、その簡単な一言だけだった。


 それで十分だと言わんばかりに、楼蘭が短く笑う。


「ほんと、お前は、ずるいな」


 香が微かに強まる。

 白の層が、紅の火に触れて揺れた。


 堕ちた王が呻く。


「穢れ知らずの紅。無欠を手にしかけて削がれた白。どちらも、檻の中から出る気はないのか」


 志貴が前へ出る。


「檻なんか、最初からないわ」


 布都御霊の柄を握り直し、指先に歯を立てる。

 噛み切った血が、矛の根元に落ちた。


「わたしの魂は、誰かを守るために在る。赦ししか持たんって言われても、この理は、命を残すためのもんや」


 血が香となり、空気が震える。

 紅の香が、黄泉の汚れに干渉していく。


「この名と、この香で」


 志貴は、一歩踏み込む。


「奪いに来た夜の者は、焼く」


 布都御霊の穂先が、深い音を立てた。

 紅と黒の火紋が一斉に目を覚まし、黄泉の汚れを焼き払おうとする。


 香が爆ぜた。


 だが、届かない。


 最後の一層に手が届かない。

 香の濃度が足りない。

 座に座っていない紅の王格としての限界が、そこではっきりと姿を見せる。


「大丈夫?」


 志貴が振り返ると、楼蘭は片膝をついていた。

 呼吸は荒く、脇腹の血が止まる気配はない。


「終わらせるぞ、志貴」


 楼蘭が顔を上げる。

 その目は、まだ折れていない。


「お前が完全でなくても構わん。俺も削がれた王のままで構わん。それでも、ここで終わらせる」


 白の香が、志貴の紅に重なる。

 紅は焼き、白は削ぎ、浄める。

 香同士がぶつかりあいながら、黄泉の空気を塗り替えていく。


「冥府も、こんな奴らも、いちばん嫌がるのは、君だ」


 楼蘭の口元に、鋭い笑みが浮かぶ。


「赦しの王、紅の千年王だけは。小さな芽のうちに摘み取っておかないといけなかったんだとよ。都合の悪い、規格外だからな」


 堕ちた王が激しく揺れた。


「紅だけは、何があろうとも許されぬ。赦しなどという、理の否定を持つなど」


 布の中から、くぐもった叫びが漏れる。


「我らは理に縋り、香を捨て、魂を削り、器を空にした。それが、王の末路だ」


 志貴の瞳が、静かに揺れる。


「理を否定してるんは、あんたやろ」


 布都御霊の穂先が、わずかに角度を変える。


「いや、違うか。あんたが、理に捨てられただけや」


 堕ちた王の輪郭がぐらりと揺れる。


 楼蘭が背後から斬りつけた。

 今度は、白炎がかすかに刃に宿る。

 しかし、やはり深い傷にはならない。

 香が足りないのだ。


 足元がふらつく。

 楼蘭の身体が、限界を告げ始めている。


 視界の端で、白い世界が少しずつ滲んでいく。

 志貴の胸もまた、焼けるように痛い。


 布都御霊の熱を制御しきれない。

 香の奔流が魂の器を焼き、そのたびに骨のどこかが軋む。


 楼蘭の足がもつれた。


「楼蘭!」


 志貴が声を上げたときには、楼蘭の身体はすでに地に倒れ込んでいた。

 黒衣が黄泉の泥を吸い、白炎の香がかすかに散っていく。


 志貴の膝も、同時に折れた。

 布都御霊を支えきれず、両手を地につく。


 指先が痺れ、喉の奥から鉄の味が込み上げる。

 咳き込み、血を吐く。

 その血さえ、黄泉の地に染み込んでいく。


「生身では、いくら千年王とて、どうにもならんな」


 堕ちた王が、愉快そうに告げる。

 布の奥で、赤い瞳が細められた。


「白だけでも、先に片づけておこうか。紅は、あとからゆっくり壊せばいい」


 楼蘭まで、あと数歩。

 その距離が、志貴には果てしなく遠く思えた。


 それでも、動く。


 布都御霊の柄をつかみ直し、炎をたたきつけるように前方へ突き立てる。

 紅蓮の壁が立ち上がり、堕ちた王の進行を一瞬だけ止める。


 その隙に、志貴は楼蘭のもとへ這うように向かった。

 身体は言うことを聞かない。

 それでも、手だけは伸びる。


「起きて、楼蘭!」


 声はかすれている。

 だが、呼びかけることだけはやめない。


 意識のない楼蘭の身体を抱き起こし、力の抜けた腕を自分の肩に回す。

 立ち上がろうとするたび、足元が揺れる。

 世界の輪郭が暗くなり、音が遠ざかる。


 それでも、一歩。

 もう一歩。


 爆ぜろ、と命じるたび、炎が燃え上がる。

 堕ちた王の怒声が、炎の向こうから響いてくる。


 志貴は、楼蘭を担ぎ上げたまま歩き続けた。

 黄泉のどこへ退けるのか、見当もつかないまま。

 それでも、退かねばならないと信じた地点へ向かって。


 限界は、とっくに超えていた。


 膝が笑い、視界の端が白く抜けていく。

 肺が空気を拒み、心臓が不規則な拍を刻み始める。


 とうとう、志貴は楼蘭の身体を庇うようにして倒れ込んだ。


 血のしずくが土に滲み、紅梅の香が、花のように静かに立ちのぼる。

 それは戦場には似合わない、やさしい香りだった。


 伏したまま、志貴はなんとか瞼を持ち上げる。

 息を吸うたび、胸の奥で鋭い痛みが走る。


 震える指が、地をなぞり、名を探す。


 一つだけ。

 言葉になった。


「……一心」


 自分でも驚くほど、自然に出た名だった。

 志貴にとっての、たったひとりの護り人。


「わたしは、どうなってもええ。壊れてもええから」


 声はかすれ、ほとんど空気に溶けていた。


「楼蘭を、助けて」


 その願いは、香の形を取った。

 紅の火と、梅の名と、志貴の魂が混ざりあって、ひと筋の光となる。


 世界が二つに割れたような風鳴りが、黄泉の層を揺らした。


 闇が裂ける。


 黒い衣が、風とともに舞い込んできた。


「誰が、お前を、壊していいと、言うた」


 落ちてきた声は、冷たいのに、底に熱を孕んでいた。

 宗像一心の声だった。


 影のような身のこなしで志貴のそばへ寄り、倒れ込んだ身体を抱き上げる。

 血と泥に汚れた手を、迷いなく握りしめる。


「志貴。ようやった」


 仮面の奥にある目は見えない。

 それでも、そこに宿る怒りと、安堵と、焦燥は香として志貴の肌に伝わる。


「一心……」


 志貴の指が、一心の装束の端を掴んだ。

 意識は遠のきかけているのに、その布だけは手放そうとしない。


 背後で、別の風が起きる。


「間に合ったか。こっちは任せろ」


 時生の声だ。

 浅い息をしながらも、しっかりと楼蘭の身体を抱え上げる。


「この子、限界どころか、とっくに踏み越えてしまってる」


「志貴もや」


 一心の声が低く落ちる。


「ほんま、ようやった」


 その一言に、志貴の指先の力が少しだけ緩んだ。


 空間の奥で、白い女が崩れかけた姿で立っている。

 赤い瞳。泉で見た、あの顔。かつて紅の千年王に届きかけた女の、残骸。


「……なるほど、お前が元凶かいな。宗像登貴、まだ彷徨える者のままとはな」


 一心は静かに眉根をよせた。


「忌々しい宗像の犬が来たな」


 幻影と化した登貴が、低く囁く。

 泉で志貴を絡め取ろうとした声と同じ響きが、黄泉の空気を震わせた。


「紅は必ず失われる。そう紡がれてきた」


 一心が、冷ややかに返した。


「御託並べても、王の器から零れ落ちたお前には何もできへんよ」


 仮面をわずかにずらし、志貴の額に短い口づけを落とす。

 あまりにも静かな仕草だった。


「お前みたいな出来そこないが、うちの志貴を語るな」


 登貴は嗤う。

 だが、その身体はもう立っていられない。

 志貴の血が、その魂を焼き始めていた。


「お前の赦しの香……やるやんか」


 一心が、腕の中の志貴を見下ろす。


「強烈やな」


 登貴の輪郭が崩れていく。


「紅が生き残る道など、どこにもない。宗像は、必ず紅を失う。それが一度でも覆ったためしはない」


 一心は、それには答えなかった。


「志貴は、息してる?」


 時生が問う。


「ああ。まだ、ゆとりはある」


 一心が短く応じる。


「そっちは」


「急いだ方がいい。楼蘭の方が危ない」


「退こう」


 二人はそれ以上言葉を交わさない。

 崩れゆく黄泉を背に、踵を返す。


 黒と灰の狭間を、紅と白の香が引きずられていく。

 千年王たちは、二人の男に守られて、その場を退いた。


 闇が閉じる。


 黄泉の水面に、紅の香だけが、かすかな名残として残された。

 理を越え、血を越え、名を焼いて咲いた紅の香。


 誰がために名を選ぶか。

 誰がために香を放つか。


 その答えが、意識の淵で沈みかけていた志貴の胸の奥で、静かに灯り続けていた。

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