第14話 香を喰らふ 黄泉にて交ふ 二つの王(前編)
早朝、宗像本家の門が静かに開き、一心と冬馬の姿が闇に溶けていった。
焔の香がひとすじ、屋敷に残る。灯りを絶やさぬようにとでも言うような、淡い熱の残り香だった。
その気配が遠ざかってすぐ、時生が障子の向こうから声をかけた。
「今日は、学校に顔を出してみるといい。体力は戻ってきているし、外の空気を吸って慣らしておく方がいい」
志貴はこくりと頷き、言われるまま制服に袖を通した。
門の外へ出ると、空は透きとおるように晴れていた。宗像の土の匂いが、足元からすこしずつ薄まっていく。
振り返れば、屋敷の屋根瓦が淡く光り、もう一度扉が閉ざされる音が、長く耳に残った。
***
教室の窓は開け放たれていた。
朝の光が、机の上に均等に落ちている。ざわめき。笑い声。チョークの軋む音。
どれも現実の輪郭を持ちながら、志貴の意識にはまるで届かない。
そのすべてが、遠い層の向こうで水音のように響いていた。
魂の香が、うすい。
宗家の焔の香も、一心の土の匂いも、ここには存在しなかった。
制服の袖をつまむ。布は洗剤の香りだけを吸い、乾いたままだ。
その乾きが、まるで胸の奥を擦っていくように痛い。
ここは無臭の世界なのだと、志貴は思った。
志貴は机に額を預けた。
日常という名の仮面を被るには、少し疲れすぎている。
出雲行きの準備を理由にした“休み”の前、ほんの数日をやり過ごせばいい。そう頭で言い聞かせながらも、胸の奥でじくじくと、別の疼きが広がっていた。
そのとき、空気がかすかに歪んだ。
何かが、視線の端を撫でて通り過ぎる。
黒板の文字が一瞬滲み、呼吸が浅くなった。
香が変わる。
甘く、やさしく、それでいて濡れた冷たさを含む香。
望の匂いだった。
狐が用いる“誘い”の香り。意識の奥をゆっくり撫で、こちらから足を踏み出させるような、柔らかく狡猾な香り。
一心の香の届かぬこの場所を、狙っていたのだと悟るまでに、時間は要らなかった。
志貴は静かに立ち上がった。
隣の席の生徒が何かを問うたが、声は水の中の泡のように耳の外で弾けた。
視線だけが、ひとつの方向へ導かれていく。
保健室。
守りの外れた場所に、望が来る。
その確信に近い感覚が、志貴の足をそこへ向かわせた。
「逃げるわけには……いかへんな」
嵐の前に張り詰めた空気を嗅ぎ取りに行くように。
***
保健室は、静まり返っていた。
白いカーテンがゆるく揺れ、淡い光が床に落ちている。
ベッドは整えられ、薬の瓶が等間隔に並んでいた。
いつもの空間――そのはずだった。
扉を閉めた瞬間、世界が切り替わる。
音が止み、香が、消えた。
狐の匂いも、人の匂いも、一心の焔の残り香さえも。
空気が、真空のように透明になる。
志貴は無意識に息を止めた。
「望の香すら……ない?」
安心と不安が、同じ速さで胸に広がる。
香のない空間は、無害に見えて、致命的な静寂を孕んでいた。
この“無”は、魂そのものを拒絶している。
志貴はベッドに腰を下ろし、襟元のボタンをひとつ外した。
空気を吸い込んでも、匂いがない。
皮膚の下まで空虚が染み込み、心臓の拍がやけに響く。
恐ろしいまでに何もない。
香も、気配も、理も。
ここは、香という法則の抜け落ちた場所。
無機質。
それは、無音よりも深い恐怖だった。
世界が志貴という存在を、丸ごと忘れようとしているように思える。
唇が震えた。声が出ない。
床下の影が、じわりと濃くなる。
木目の間を縫うように、闇が這い上がってきた。
空気がわかりやすく冷える。
足首をなぞる風が、異質な温度を帯びている。
その冷たさに思わず立ち上がった瞬間、足裏の感触が抜け落ちた。
重力が遠のいた。
音も、色も、香も、いっせいに剥がれ落ちる。
空間が、静かに裏返る。
掴むものが、何もない。
呼吸がどこにも届かない。
自分という輪郭すら、ほどけていく。
脳裏に閃光のように甦ったのは、あの冬の日だ。
公介に修行だと告げられ、十五分だけ“底”に落とされた記憶。
凍る息、揺れる灯、黒い湖。
その暗闇から、一心の声が呼び戻してくれた夜。
だが今は、声がない。
どこにも、誰も、いない。
風はなく、音もない。
ただ、“底”だけが開いている。
色が、音が、香が剥がれ落ちる。
志貴の身体は、世界から理をひとつずつ失いながら、沈んでいった。
声が、胸の奥で凍る。
それでもなお、信じているものがひとつだけあった。
香が消えても、魂が剥がれても、名があれば呼び戻せるという手応えだ。
呼ぶ者の声が、どこかで届くと信じている。
呼ばれたい名が、自分の中に確かにひとつある。
唇がその形をつくった瞬間、意識が闇に呑まれた。
堕ちた。
香のない場所へ。
音のない階へ。
誰の魂も届かぬ、黄泉の層へ。
その最果ての縁で、ごく短く、火と獣の匂いが鼻を掠めた。
泉の夜と同じ温度。
あたたかく、懐かしく、胸の奥をゆるく震わせる。
香が消えても、魂が裂けても、名前だけは残る。
その名を呼べるのは、ただひとり。
志貴は、光のない空へと、静かに沈んでいった。
***
時間という輪郭は、とっくに溶けていた。
雪ではない何かが、地を薄く覆っていた。
死んだ雪の欠片が靄のように低く漂い、地平と空の境を曖昧にしている。
その白さを踏むたび、足裏に音がない。沈まない。割れない。
ただ、薄い殻を渡っているような、底のわからない歩行だけが続いた。
志貴の制服は、袖口から裾にかけて裂け目だらけだった。
布に染みこんだ血はすでに乾いて硬くなり、動くたびにひび割れて肌を擦る。
膝には雪に叩きつけられた痕が残り、指先からは感覚が抜けて久しい。
それでも身体の芯は、不思議と折れていなかった。
呼吸が深い。
現世では、肺に息を押し込むたび、胸のどこかを締めつけられるような重さが常にあったのに、
この場所では澄んだ冷気が、そのまま血へ溶けていく。
凍てつく空気が骨のうちに入り込み、芯からじわじわと整えるように馴染んでいく。
この底冷えに、肉体の奥が応じている。
自分でも知らないどこかが、この深さを知っているとしか思えない。
理由はわからないまま、ここでは壊されないという感覚だけが、静かに身体に根を張りつつあった。
地の奥から、低く唸るような気配が近づく。
悪鬼の群れだ。
香がないため、音も気配も均質に溶けているのに、彼らの欲だけが奇妙に濃い。
喰うためだけの欲が、皮膚の裏でざらざらと擦れ、志貴の脈に触れる。
志貴は半歩だけ身をかがめた。
地の揺らぎ、生物の体重移動、風軸。
香に頼らず、雪のわずかな乱れや空気の勾配で、相手の位置と数を読む。
そうした術を誰かから習った覚えはないのに、身体は雪を噛む獣のように準備を整えていた。
影が弧を描いて迫る。
獣の爪。黒い闇の塊。
その瞬間――
白い火が、降りかかった。
音を持たない一閃。
風より速く、闇より冷たい何かが、志貴の頭上を掠めた。
悪鬼の胴が静かに裂け、断面から凍りつきながら崩れ落ちる。
砕けた雪と灰が弾け、視界に淡い白が舞い上がった。
志貴は反射的に振り返る。
そこに、ひとりの影が立っていた。
黒地に深紅の糸を織りこんだ羽織。
雪明かりの中で淡く浮かぶ細身の体躯。
肩口から腰にかけて布は裂け、凍りついた血が黒く張りついている。
片腕は力なく垂れ、もう片方の手首からだけ、熱を持たない白炎が立ちのぼっていた。
それは凍てついた炎であり、揺れるたびに周囲の空気をわずかに歪ませる。
悪鬼たちが、その白へ怯えたように距離をとった。
影が、ゆっくり顔をあげた。
紫水晶の瞳。
その光が志貴を捉えた瞬間、空気に細いひびが入ったような感覚が走る。
黄泉そのものが、ふたりの出会いを記録したかのような、微細な震えだった。
「……人間か?」
声は低く、乾いた空気を割るほど静かだった。
生者と死者を分ける線を探るような、慎重な一語だ。
志貴もまた、相手を見返した。
敵でも、冥府の遣いでも、悪鬼でもない。
だが、ただの人と呼ぶには、その輪郭はあまりにも整いすぎている。
瞳の奥に宿る理の密度が、この黄泉の層には似つかわしくないほど濃かった。
「人以外を期待してるんなら申し訳ない。残念ながら、私は人や」
息を整えながら告げると、影の眉がわずかに動いた。
それが驚きか、警戒か、判じかねる。
影が足元を、ほんのわずかにずらした。
軸が変わり、重心が沈む。
構えている。
志貴はそれを見て取った。
相手はまだ、志貴を敵か味方か測りきれていない。
こちらもまた、同じ場所に立っている。
背後で、悪鬼の群れがざわめいた。
白い粒のような影が、雪の靄の向こうで蠢いている。
その動きに合わせるように、影が手のひらを返した。
白炎が細く伸び、刃の形をとる。
志貴も身を沈め、割けた裾を踏まぬよう足の位置を整えた。
刹那。
ふたりが同時に動いた。
雪を蹴った志貴の足元で、砕けた白が弾ける。
影の白炎が、斜めの軌跡で襲いかかる。
志貴の腕が瞬きより速く伸び、来る線をわずかに逸らす。
白と黒が交差し、火花ではなく、氷塊のような光が飛散した。
互いの間合いは、一瞬で詰まり、一瞬で離れた。
その短い交錯のあいだに、志貴は吸いこんでいた。
相手に魂の香があるかを探る。
死者でも獣でもない、確かに生きている者の匂い。
焦げた理の残り香と、雪を払うような清冽さが混ざっている。
この層にいて、なお失われていない生の匂いだった。
影の瞳が、かすかに揺れた。
「凍ってない香りだな」
志貴は胸の奥に、細い温度が灯るのを感じた。
「そっちも、生きた匂いや」
言葉よりも先に、感覚のほうが通じ合う。
黄泉の深さで、香のない世界で、それでも相手の輪郭が匂い立つ。
白炎が、かすかに弱まる。
影が、ようやくわずかに構えを解いた。
「宗像の匂いがする」
志貴の胸が、静かに波打つ。
黄泉でその名を読み取る者がいるとは考えていなかった。
「どうして、わかるん」
「香の層が深い。やけに目立つのも宗像だ。それに、動きがあの一族のものでしかない」
見透かされる感覚があった。
身体の奥にひそむ何かを、初対面の相手に指でなぞられたような感触だ。
怖さと、そこからすべり落ちるような安心とが同時に胸をなでる。
「そっちは」
問うと、影は短く沈黙した。
名乗ることの利と害を量る沈黙に聞こえた。
やがて、低い声が落ちる。
「鴈一族を聞いたことはあるか?」
雪が、ひとひら落ちた。
黄泉の空気が、その名を飲みこむように静まり返る。
「泰山か。……私は、宗像志貴」
「俺は、鴈楼蘭」
ふたりの名が、黄泉に沈んだ。
その瞬間、空気の厚みがふっと変わる。
理の奥で、何かが小さく噛み合う音がした。
楼蘭の頬には、古い傷が一本走っていた。
その上から新しい傷が重なり、乾きかけた血が白炎の熱でわずかに溶けている。
長くここに落とされ、何度も悪鬼の群れをくぐり抜けてきた痕跡が、纏う空気に滲んでいた。
「ずいぶん、ここにいるんやな」
「追い出された回数を数えるのはやめた。数え切れるうちはまだましだった」
苦笑とも自嘲ともつかない息が漏れる。
白炎の揺らぎが、ほんの少しだけ乱れた。
志貴は、その乱れを見て取る。
この男はとっくに限界を超えている。
それでもなお、まだ立っている。
黄泉に削られながら、立ち続けている。
「続きは、生き延びてからや」
楼蘭が先に言った。
互いの呼吸が、そこではじめてひとつ揃う。
その合図を待っていたかのように、悪鬼の群れが雪煙のように押し寄せた。
黄泉の白が裂ける。
無数の影が牙を剥き、喰らうためだけの空白が押し寄せる。
楼蘭の白炎が、風を切るように走った。
形を持たぬ焔が、悪鬼の輪郭だけを凍らせる。
志貴の足元からは、熱を持たない焔がふっと立ち上がる。
血の温度だけを宿した火が、触れた影を静かに焼き尽くしていく。
白が封じ、紅が送る。
互いの理がぶつかることなく、自然に並び立つ。
刃ではなく、香でもなく、動きだけが魂の言葉となってふたりの間を流れた。
斬る。凍らせる。逸らす。
相手の呼吸を見ずとも、次の動きが読める。
黄泉の闇がふたりを包むたび、世界がかすかに軋み、どこかでひびが入る。
砕けた悪鬼は雪に似た白へ還り、香も影も残さず底へ沈んだ。ふたりの呼気が霧となり、空気の膜をかすかに震わせる。
――黄泉の空に、細いひびが入りはじめていた。
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