黙の月 一千年の孤独を、愛せ。

ちい

第1話 血に咲きて なお君を問ふ花のごとく


『壊したいもんがあるなら壊せばええ。――せやけど、お前に手ぇ出す奴は俺が殺す』


 


声は耳ではなく、骨の裏で鳴った。

宗像志貴は白木の狼面の内側で紅い飴を舌に転がし、薙刀の柄を握り直す。

甘さは合図。怖れを砕くための癖だ。


 


今夜は境界が薄い。わずかでも逃したなら死人が出る――その予感を、志貴は身体で知っていた。


 


その夜から、すべてが変わり始めた。


 


人間は死んだら終わりだという。

だが、それを証明した者が、この世にいただろうか。

死んだら楽になる、死んだら無になる――どれも“仮定”に過ぎない。


 


宗像志貴にとって、“死”は他人事ではなかった。


 


“黄泉使い”――それが、志貴の一族の名だった。

死後、「汝は何であるか」と問われ、それに答えられなかった魂は悪鬼となる。

黄泉使いは、その悪鬼を狩る者たち。

人知れず、死の世界の片隅で命を削る――それが宗像家に課された、血の宿命だった。


 


宗像の家には、一つの証がある。

“王の証”と呼ばれる痣。梅の花のような形をしたそれは、代々ただ一人にだけ現れる。

その痣が、志貴の肩に現れた。


 


だが、志貴には才がなかった。

術も薙刀も、ほとんど扱えない。努力しても届かず、どれだけ身体を鍛えても力は解放されない。

彼女が“宗像の王”と囁かれたのは、その痣があったからにすぎない。


 


そんな自分が選ばれた。

誰よりも血に縛られ、誰よりも孤独だった。


 


「……なんで私なんやろな」


 


ひとり、仮面を前にして呟く。

狼の意匠を彫られた白木の仮面。宗像の者が死地に赴く時、必ず身につけるものだった。

声は届かないと知りながら、指先が仮面の縁を撫でる。

恐い、という言葉を使えたら、どれほど楽だろう。


 


今夜の任務は特例だった。

本来なら志貴とバディを組むはずの幼馴染が外され、代わりに宗像公介が随行していた。

志貴の伯父であり、宗像家の軍略と技術を担う重鎮。

その目は常に冷静すぎた。志貴が力を発動するその瞬間まで、彼の表情からは何も読み取れなかった。


 


「……今日も、駄目かもしれへん」


 


志貴の声は小さく、濡れた土に溶けた。

そのつぶやきに、公介は振り向かずに応じる。


 


「泣き言は早いぞ」


 


月は薄雲に拭われて輪郭を崩し、湿った森は腐水の匂いを孕んだまま音を溜め込んでいた。

夜に紛れた異形の気配が、じわりと志貴の気配に引き寄せられてくる。

薙刀を構える手が汗ばみ、仮面の奥で呼吸が乱れる――それでも、踏み出すしかない。


 


「狩果の目標、五十」


 


それは魂の数であり、忌まわしい記録だった。


 


暗がりが裂け、一体目が跳ねる。

志貴は低く身を伏せ、薙刀の柄で足を払う。

続けざまに襲いかかってくる二体目――回避、振り下ろす。

だが刃がぬめりを撫でただけで裂けず、手首の骨に鈍い反動が刺さる。


 


蛇の粘り、皮膜の下で遅くうごめく鼓動、湿った足場の低い鳴り――そのとき、風も音もなく熱だけが背骨に沿って落ちた。


 


群れは、数の重みで迫ってきた。

影の尾が幾重にも折り重なり、溢れ出てくる数に身体が押し潰されそうになる。

単独で対峙するには、あまりにも危うい。

思考が呼吸より早く乱れ、次に出すべき一手が指の先から逃げていく。


息が止まり、世界の音が一度、消えた。


 


『応えよ、千年の王たる血』


 


──腹の奥から声が湧いた。追い詰められた時にだけ届く声だった。


 


鼓膜ではなく臓の膜が震える。

その声に抗う間もなく、志貴の指が刃へと導かれていく。

声に引きずられるように刃に指先をそっと押し当て、ささやかな痛みに続いて滲んだ血で金属の匂いが腐臭を上書きする。

どの黄泉使いとも異なる赤い燐が刃先に灯る。

刃先から零れ落ちる血が地を静かに濡らしていた。


 


「暗き闇を照らす尊き月よ。汝の光を吾が血に返せ――」


 


風がふっと止み、群れの足が揃った。

土の下の石が低く唸り、世界の継ぎ目がひとすじ締まる。


 


「汝、何であるかを悟れ。悟れぬなら――」


 


指を鳴らす。乾いた骨の音が闇を断つ。


 


「汝ら永訣の鳥となれ」


 


地が割れ、紅蓮が噴き上がった。

咆哮も断末魔もないまま、影は五十――一拍で焼け落ち、黒い煤だけが地表に短い影を残し、やがて風に解ける。

末路はなく、“存在”だけが剥ぎ取られていく。


 


この一撃は志貴自身の意志の帰結ではなく、声が胸の拍を奪い、手を代行したような必然だった。


 


宗像の術に、指先ひとつで群れを落とす手立てはない。

まして五十などあり得ない。――今の一拍で、志貴はそれをやってしまった。


 


炎が引くと、焦げと鉄の匂いが舌にまとわり、虫の音が一つ途切れて森は沈黙した。


 


「あかん……」


 


志貴は膝をつき、仮面の内側で荒い呼吸を繰り返す。

汗が襟を濡らし、額の髪が頬に貼りつく――それでも傷はひとつもない。


 


「狩果は十分だ。だが――言いたいことはわかってるな?」


 


背から公介の声が、怒りの温度だけを底に沈めて落ちた。


 


「こんな落とし方は、宗像の記録に一つもない」


 


短い吐息が混じる。湿土に紙煙草の残り香がわずかに漂った。


 


「正攻法と言える自信はあるか?」


 


志貴の肩がかすかに跳ねる。

公介は追い詰める調子を避けながら、逃がしはしない。


 


「俺は、お前が自分で術を発せるとは思っていない。言い訳はあるか?」


 


言葉は出ない。沈黙が答えになり、視界の端で袂が揺れた。


 


「もう仮面を外せ。跳ね返りが――」


 


世界が傾く。

志貴はそのまま倒れ、力強い腕が受け止める硬さと温度だけが確かだった。

狼面が頬から離れ、白木の香が遠のく。

白い耳鳴りがひと筋走り、自分の名を心の中で繰り返そうとして、最初の一拍が霧のように掴めない。


 


森が息を潜めた。湿った夜気が、ふいに静まる。


 


***


 


障子の向こうで風鈴が遠く鳴り、夏の風は薄い香を畳に撫でて運ぶ。

床板は柔らかく鳴り、掛け布の麻は肌に涼しい線を引いた。


 


唇に紅い飴がそっと触れると、眠りの底で舌がそれを受け取り、甘さが喉へ落ち、額の髪を優しい指が一房ずつ離していく。

指の腹はぬくもりを含み、爪の先だけがひやりとしている。

志貴は目を開けられない。ただ、甘さと温度が胸のほうへ静かに沈んでいった。


 


行灯の芯が細くはぜ、い草は日中の熱をすでに手放している。

壁の掛け札に刻まれた家の字がふいに視界をかすめ、読み上げようとした音は一画目でほどけた。

名の端が薄く滲み、掴み直すより先に眠気が勝つ。

桟が小さく鳴り、板戸が乾いた音で引かれた。


 


***


 


公介は障子を二寸だけ引き、先に回廊へ身を滑らせる。

夜露を吸って重みを帯びた縁板が足袋越しに小さく軋み、庭砂利は濡れて白く浮き、石灯籠の影だけが濃い。

遠い水面では蛙の声が丸く弾んだ。


 


「一心。少し、話そう」


 


低い呼び声を障子越しに落とすと、枕元にいた男が志貴の髪から指を離し、足袋のまま畳を音も立てずに離れた。

行灯を避けて板戸の桟に指をかけ、二人は縁を踏まず柱の陰へ移る。

室内の空気は乱さない――志貴の寝息を守るためだ。


 


公介は柱に掌を置き、ひんやりとした木肌が体温を吸うのを感じながら、障子の四角い灯が室内の寝返りに合わせてわずかに揺れるのを見ていた。


 


「今夜の評定はSS、昨日はBだ」


 


「いつも通りやんか」


 


「お前の見解を、根っこから聞かせてくれるか」


 


「それ、何て答えて欲しくて聞いてんの?」


 


夜露が縁板を暗く濡らし、足音を呑み込む。


 


「どう咎めるべきか、俺は迷ってる」


 


「好きにしたらよろしいやん」


 


「俺は、志貴に嫌われたくはないからな」


 


「そらそうやろな」


 


短い沈黙が落ち、庭の片隅で水が滴って石を冷たく叩いた。


 


「志貴は宗像の枠にははまらんぞ」


 


「普通の物差しで測る方が間違いや」


 


言葉は少ない。けれど、志貴に欠け、そして満ちているものが何か、二人はよく知っている。

公介は長く息を吐き、天井桟を一度だけ仰いだ。


 


「少しだけ、分かった。――なぜ志貴が選ばれたか」


 


「それは違うわ。志貴に選ばせたんや」


 


「違いないな」


 


一心は横目で公介を見る。静かで底の見えない瞳。縁板が二人の間で小さく鳴った。


 


「……すべては巡る。逃げられへん」


 


一心はほとんど笑わずにそう言って室内を視線で示すと、公介は頷き、障子を音も立てずに引いた。

畳は沈むだけで音は立たない。志貴の寝息は浅く、飴の甘さを抱いたまま続いている。


 


***


 


その夜、志貴は深く眠った。

夢の内側で、また“あの声”が鳴る。名は呼ばない。ただ、魂の骨に触れてくる。


 


――もしそれが幻であれば、どれほど楽だろう。

なぜなら、その声の主こそが、誰よりも彼女を壊そうとしているのだから。


 


その声が、いつか志貴を呼び戻すことを、まだ誰も知らなかった。

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