第22話 母は風に吹かれる


 夜の街には、わずかに湿った風が吹いていた。昼間の暑さは影を潜め、しっとりとした空気が地面から立ち上がる。街灯の灯りが道を照らす中を私は静かに歩いていた。その背には錫杖。足音ひとつ立てぬ足取りで、後ろをついてくる門弟と子供たちに無言の指揮を送る。


 今夜の見廻りは、子供たち四人を連れてのものだった。次期当主候補である長女・悠、長男・夏臣、そして末の双子の千昭と冬千佳。年齢的にも霊力的にも、四人の中では悠が最も優れ、最近では門弟たちからもそれとなく一目置かれている存在となっていた。


 悠は十八で夏臣はまもなく十六になる。本来であれば別行動を任せてもいい年齢と実力だ。むしろ普段は研鑽を積ませるために積極的にそうしているのだけれど、今日はあえてそうしなかった。


 お母さまにも門弟たちにも聞かれないように話をしたかったのだ。


 この輪の中に裕也さんがいればどれほど良いか…もう星の数くらいには思い描いた妄想だ。


「夏臣、霊気が散漫してる。肩に力を入れ過ぎ」

「っ。わ、分かってるよ」

「分かってるなら直しな。敏い妖怪だったらバレてるよ?」

「…」


 姉の口やかましい言葉に、夏臣は少しむくれた顔を見せる。この子は絶賛反抗期の真っただ中でこうして私や悠から指摘されると、つい顔に出てしまう。


 正直、最近は一番手を焼く事も多い。それは多分、母親と息子と言う関係性もあると思う。女の子の心情であれば全く分からないとは言わないけれど、年頃の男の子の扱いと言うのは難しい。


 特にこの子の場合は同世代の友達は少ないし、周りにいる同級生は退治屋の関係者。そうなると神邉の名前が嫌でもちらつくだろうから、その折り合いをつけるのが大変だろう。父親を頼ってくれれば…少しは違うのだろうけれど。


 そんな夏臣へのお説教はほどほどに悠は淡々と後ろを気にしていた。妹たちが後ろで囁き合って笑っているのも耳に入っているが、弟ほどきつく𠮟る様子はない。


 双子の妹たちはようやく十歳になった頃。まだ幼さが残るものの、それぞれに個性があり、最近では霊力の片鱗も見せ始めている。千昭は陽気で誰とでもすぐ打ち解ける性格。冬千佳はおっとりしているようで実は芯が強く、時折するどい観察眼を覗かせる。私もそろそろ高度な術を教えてもいいと思えるくらいの素養は現れている。


 そんな子供たちを見守っていると私は頭の片隅に彼の…フェイスレスの事が思い起こされた。


住吉団地での対話以来、フェイスレスは完全に鳴りを潜めてしまい、彼に関する目撃情報をまったく聞かなくなった。まるで最初から存在しなかったかのように。あれだけ目撃情報が飛び交い、退治屋たちの間で騒がれていた渦中の存在だったというのに。今では時たまSNSでは話題になり、復活を望む声も少なからずある。


 実を言えば私もその一人だった。


 あれだけ辛辣な事を言っておいて矛盾も甚だしいとは感じている。しかし子供たちの事を見ていると、いきなり突き放す言い方をするのではなく、救済措置を残しておくべきだったと後々なって後悔していた。


 胸中はどうあれ彼が妖怪を退治し、人助けをしていたのもまた事実だ。


 振り返ってみれば私の冷酷さが仇となって彼が民間人や退治屋を逆恨みしてしまうことだって十分に考えられる。我ながら思慮が足りなかったと言わざるを得ない。


 しかしあの時の私は違った。今でも感覚を覚えているけれど、彼の事を見ていると妙に心がざわめいてしまうのだ。他の誰かに危害が及ぶ心配は当然あったが、それ以上に彼に危ない事をしてほしくない、そんな気持ちが溢れていたのを思い出す。


 あんな突き放す言い方以外にも、もっと歩み寄ることができたはずなのに。


 後悔の念が募ると、私は「ふぅ」とため息を吐いていた。


「どうかしたの、お母さん?」


 ため息に耳聡く気が付いた悠が聞いてくる。本当に気の利く子だと、この歳になっても親馬鹿を発揮してしまう。


 本当はすぐにでも本命の裕也さんの話をしたかった。けれど、いつも通りの言い方ではいつも通りにあしらわれると思ってクッション代わりの前座としてフェイスレスの名前を出した。


「最近、あのフェイスレスって人を見なくなったわね」

「…だね。お母さんがしばいたんでしょ?」


 しばいたって…大分語弊がある。しかし暴力を振るわなかったにしろ、言葉で殴りつけた自覚はあっただけにすぐに反論はできなかった。


「…変な言い方しないの」

「でも、もう退治屋の話題出ること少なくなったし。こっちに悪さしてこないってことは、お母さんの説得に効果があったんじゃない?」

「かもしれないけれど、ね」

「なんか引っかかんの?」


 と、夏臣が聞いてくる。そこで私は後悔の感情を素直に打ち明けたのだ。


「あの時はきつい言葉をかけちゃったけど、そうじゃなくて私たちに協力してもらうよう頼むべきだったかもって」

「え? 俺たちには散々近寄るなって言ってたくせに」

「そうなんだけど。逆上して敵対する可能性もあったでしょ」

「そんなに罵ったの?」

「罵った訳じゃないの」


 ああ、ダメだ。何をどうしても言い訳じみてくる。


「ごめんね、変な事を言って」


 私はそう言いながら空を仰ぐ。だがその時、耳の奥にあの音がまた微かに響いた――笛の音。


 澄んだ和笛の一音が、風に紛れて届いてくる。それは心を落ち着かせるというよりも、胸の奥にかすかな波紋を投げかけるような音だった。私は無意識に足を止めていた。


 笛の音が聞こえるのは、今この中で私だけかもしれない。前に田下くんも、津島さんも聞こえないと言っていた。私の霊力が反応しているのか、それとも…。


「……お母さん?」


 再び悠の声がした。振り返ると、娘は私の表情をじっと見ていた。


「ちょっとぼうっとしてた。疲れてるのかも」

「…何か、聞こえたの?」

「!」


 子供らには笛の音色のことは伝えていないはずなのに。私が何かを聞いたと勘づいている。


 ――この子は、本当に何でも見抜く。


 誤魔化すかどうか少し迷ったが、今しがたフェイスレスの事で自分の気持ちを欺いたばかりでそれはやりたくなかった。


「笛の音色が聞こえるの」

「笛?」

「ええ。鵺が出たかもしれない話は聞いたでしょ? 初めてそれらしい影に出会ったときから時々聞こえるようになってね」

「…そうなんだ」

「でも呪詛とか何か害があるってわけじゃないから、心配はしないで」

「お母さんに限ってそれはないでしょ。それにお婆様から聞いたけど、鵺の情報がつかめたから、今度正式に退治に出向くんでしょ?」

「そうね」


 悠はそれ以上は何も言わず、ただ私を追い越して歩き出した。その仕草に、彼女の成長を感じる。


 そんな娘の背中に声を掛ける。

 

「悠、あなたがいてくれて、本当に助かってる。お母さん、年を取るのも悪くないって最近ようやく思えるようになった」

「…何それ、やめてよ。死ぬ前の遺言みたいに言わないで」


 ぎょっとしながら言う悠の言葉に、思わず笑ってしまう。


「でもね、真面目な話。あなただけじゃないの。夏臣も、千昭も、冬千佳も。それぞれに立派に育ってくれている…ただ一つだけ。あなたたちにお願いがあるの。聞いてくれる?」


 私が立ち止まると子供たちも足を止めた。そして順繰りに四人の顔を見渡す。双子たちはきょとんとした愛くるしい顔を見せ、夏臣は少しむすっとしながらも耳を傾けている。そして悠だけが真正面から私の目を見つめ返してきた。


 だから自然と目が合った悠にだけ言うような体で言葉を紡ぐ。


「…お父さんのこと、もう少し尊重してあげてほしいの」


 その一言が、空気をぴたりと張り詰めさせた。


「…え、それって今?」

「そうだよね、俺だって別に嫌いとかじゃないけど…なんか、近づきにくいし」

「お父さんって、ちょっとぼーっとしてるから」

「ねー」


 千昭と冬千佳が無邪気に笑いながらそう言う。それに対して悠は、少し間を置き短い溜息をついてから呟いた。


「別に嫌ってないけど…尊重しろって言われても、正直…何を? って感じだから」


 私の胸に刺さる言葉だった。分かっていた。裕也さんが家の中で、いや子供たちに取ってどんな存在になってしまっているのか、それを知らないほど鈍くはない。


 でも、だからこそ伝えたかった。


「あなたたちが見てるお父さんは、普段は家で静かにしていて、ちょっとぼーっとしてて、頼りないって思うかもしれない。妖怪退治の仕事もできない。でもね、あの人はあなたたちのことをいつも誰よりも想ってる。どんなに軽んじられても、真面目に生きて、家族のことを一番に考えてるの…親として子供たちばかり危険な目に遭って、何かあっても駆けつけられない。そんな中でただ待っているのがどれだけ辛いか」

「…」

「他の退治屋の家と比べる必要もないでしょう。せめて家の中では、お父さんを一人にしないであげて」


 その言葉に、悠は唇を噛みしめていた。


「…分かってるよ。けど、なんか、どうしたらいいのか分からないの。今さらって、思っちゃう」

「今さらなんてことない。むしろ今だからこそ、できることがあるの。悠、あなたがやれば、きっとみんなも続く」


 しばらく沈黙が続いた後、悠は


「考えとく」


 と呟いた。


 小さな声だったけど、私にははっきり聞こえた。


 ほんの少しでもいい。何かが変わってくれれば、この世に家族の絆よりも大切なモノなんてないんだから。


 子供たちが裕也さんと向き合ってくれるようになるのなら、どんなこともする。最近の陰鬱としていた日々の中に一筋の光明を垣間見たような気がしていた。わずかでも前進したことで胸の奥に少しだけ温かいものが灯っていた。


ただ、その一方で足元の土の中からじわじわと冷たい不安が染み出してくるような感覚があった。


 ――ヒュウ、と。


 風が草を撫でる音に混じって、またあの音が聞こえてきた。


 笛の音色。澄んでいて、穏やかなはずの音が、どうしてこうも胸をざわつかせるのだろう。


 私は音のする方向を無意識に探った。だが、空間には何の変化もない。草木も、空気も、霊の流れも、まるで何もなかったように平穏を装っている。


(…なんで私だけに聞こえるの)


 胸に指を当てて鼓動を確かめる。いつの間にか早鐘を打っていた。


「お母さん?」


 またしても悠が心配そうに近づいてきた。


「ごめんなさい。さあ、見廻りを頑張りましょう」

「…」


 それがから元気なのは悠には伝っただろう。


 あの音は、ただの幻聴ではない。霊的な何か――あるいは記憶や、もっと深いところに響いてくる何かが混じっている。


 けれど今後改めて正式に鵺と思しきモノを退治することが決定している。いつも通りに仕事をこなせばこの音とも因縁が付けられるはず。私はそう信じて、自分を鼓舞していた。


 月は高く、雲は切れ、凍京の夜空をゆっくりと通り過ぎていく。

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