第2話 女中のような日々

 葛木家での、綾子の朝は早い。


 朝は夜明けと共に起き、まず馬に飼い葉をやる。

 それから、食事の準備、急いで玄関の掃除をした後、父と妹、弟の見送りが日課だ。


「ちょっと、が高いんだけど?」


 十になったばかりの腹違いの弟に言われて、綾子は「申し訳ありません」とちぢこまった。


 綾子は女性にしてはかなり背が高かった。

 たいていの男性ですら見下ろしてしまう高身長で、彼女自身かなり気にしていたし、かつて二度あった縁談でも当時の婚約者やその家族たちにちくちくと言われたものだった。


彰人あきと、お姉さまも好きで背が大きいわけではないんだから、ねぇ。まあみっともないことに変わりはないけれど」


 十七歳の妹、正子まさこがころころと笑う。


(機嫌がいいわね……)


 いつもの正子ならもっと罵ってきたり、花瓶の水をかけたりとやりたい放題だ。一体、どうしたのだろうか。幼い頃は仲が良かったが、いつの間にか彼女は綾子を下に見て蔑むようになった。


 人力車で中学校と女子学習院に向かうふたりを見送り、それから自動車で出勤する父親に頭を下げる。


「いってらっしゃいませ」

「明日、来客がある。抜かりなく掃除をしておくように」

「承知いたしました、お父さま」


 エンジンの音を響かせて、排気ガスの匂いを振り撒きながら自動車が走り出した。

 来客なんて珍しい。いったい誰だろう。


 家令に問えば、どうやら明日の来客は外国からの紳士と、彼と事業を共にする財閥の令息らしい。


 料理番コックである初老の男、伊藤がここのところ砂糖とバターをふんだんに使った洋菓子を作っては試食し、綾子にこっそりと食べさせてくれたのだが、そういうことかと納得がいった。


 そして、正子の機嫌がいい理由も。


(きっと挨拶の時間をもらっているんだわ……)


 明日の来客は伊藤から二十代後半の男性ふたりと聞いていた。ふたりとも独身らしい。きっと、正子は財閥の令息とお近づきになりたいと思っているに違いない。


 バルコニーで舶来の紅茶か珈琲と共に、バターと砂糖たっぷりの洋菓子で語り合うのだろう。秋のバラが美しく咲き誇る庭園を眺めながら。


(まあ、わたしには関係のないことね)


 綾子は準備されていた犬の餌を犬舎に持ってゆく。

 犬を飼うには畜犬税がかかるので、華族の嗜みの一つのようなものだ。セッターやポインターなど流行りの洋犬を飼っているのは葛木家の見栄である。


 皿の中の餌を早くも平らげた一頭の犬が、綾子に視線を向け、鞭のような尻尾を振った。


 ポインターだ。名前は「エス」。耳が垂れており、艶々とした短い毛に覆われた身体に茶色い斑模様のある大型犬である。


「エス、ごめんね。今日は遊べないの」


 綾子は暇さえあれば、このとらわれの生き物を庭に出してボール遊びなどをしてやっていた。彼女はとにかく犬に好かれる。一方で猫にはめっぽう嫌われていた。不思議である。


 遊びたがるエスを抑えながら器を片付け、飲み水をあげて撫でてやり、後ろ髪を引かれる思いでその場を後にした。背後から、悲しげにピーピー鼻を鳴らす声が聞こえた。


 その後、応接間をとことん磨き上げ……翌日、菓子の焼ける甘い香りが漂ってきた頃、洋装の男性がふたり訪問してきたと聞いた。


 もちろん、綾子は葛木家の一員として彼らをもてなすことは許されない。だが、その辺の女中よりよっぽどマナーには詳しいので、茶菓子の給仕を任された。洋装のお仕着せを鏡の前で着る。


(隠れてるわね……)


 綾子はいつの頃からか鎖骨の下あたりの胸元にあざができた。

 それはどんどん濃く大きくなっていき、今や手のひらより少し小さいくらいの大きさがある。

 狐か犬のような尖った口先と三角の耳のある影のようにも見える。

 白いブラウスなので透けてしまうかと思ったが、杞憂なようで安堵の息を吐く。


 鏡の中の己の顔を見つめた。本物の綾子は病気で、田舎の別荘で療養していることになっている。妹とは顔も似ていない。


 それにしても……と思う。


 もしもこの秘密が露見したら、どうするつもりなのだろう。

 男爵家の長女が女中をしていると外に知られたら大変なことになるのに。

 綾子はかぶりを振った。詮無きことだ。綾子が心配することではない。


「我が家の厨房で焼きました洋菓子と紅茶です」


 上機嫌な面持ちでにこやかに口を開く父。妹、それから弟。

 その向かいに、洋装を着こなす紳士がふたり。ひとりは彫りの深い、どこか異国の雰囲気を醸す日本人男性で、もうひとりは青い目の容姿端麗な西洋人である。

 一瞬、その美しい横顔に見惚れる。


(宝石みたいな目……)


 黒髪に青い瞳。陶磁器のように滑らかな白い肌に、整った鼻梁や顎の線もまるで一流の職人が作り上げた彫刻のようだ。

 彼は綾子に視線を向け、驚いたようにわずかに目を見開く。


 彼の青い瞳と綾子の焦茶色の瞳が交差した。


 綾子は目を逸らし、動揺を隠しながら滑るように足を運び、紅茶を提供する。

 心臓が口から飛び出しそうなほど跳ねていた。


 父親が見栄を張るためにわざわざ欧州ヨーロッパから取り寄せた一流の陶磁器を持った手が震えそうになる。


「ありがとう、お嬢さんフロイライン


 異国の紳士は笑顔で礼を述べた。


 はっと気づいた。ドイツ語である。まさか礼を言われるなんて思ってもみなかった。しかも、もう二十五の女中姿の綾子に「お嬢さんフロイライン」なんて声をかけてくれるだなんて、心臓が高鳴る。

 

どういたしましてゲルン・ゲシェーン


 とっさに、女学院時代に習ったドイツ語で返答してしまった。

 華族女学院での欧語学、つまり外国語の授業は、会話が主体。

 華族の女性は同じく華族の夫に嫁ぐことが大半なので、将来海外に出張や留学に赴く夫に帯同することも鑑み、外国語教育は意思疎通を第一に組み立てられている。


「驚いた、先ほどの出迎えの時といい、貴家きかでは使用人や女中にまで外国語を仕込んでいるんですね」


 日本人紳士が驚いたように目の色を変える。


「大山家だってこうはいかないだろう? 財閥だというのに」

「ははっ違いない」


 ドイツ人紳士が、流暢な日本語で隣の男を茶化した。日本人紳士も声を出して笑った。


(そんな……大山財閥のご令息……!)


 口からひゅっと息が漏れそうになり、綾子は慌ててミルクと砂糖の入ったポットを差し出した。

 歳のころは少し上。きっと、三男の伸晃のぶてるだ。


「挨拶くらいならばできて困ることもないでしょうと、定期的に勉強会を催しておるのですよ」


 綾子の父は褒められていい気になっているようで、その舌は脂でも塗っているかのように滑らかだった。


「我が大山家も見習わなければならないな」

「恐れ多いことにございます、さ、冷める前にどうぞ」


 大山財閥と言えば、日本屈指の財閥だ。分家も含め、一族の殿方は銀行の頭取から政府高官、そして軍の高官まで勢揃いと聞く。

 華族女学院時代、大山一族に嫁ぐか婿として迎えたいと皆が言っていたものだ。


(お父さまと正子の狙いは大山家の令息ね……)

 

 このような機会は早々ない。妹のはしゃぎぶりも頷けるというものだ。


 綾子は小さく優雅に一礼をし、しずしずとその場を後にした。

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