Lover Girl

カフェオレ

第一章 ラブレター

 五月七日。ゴールデンウィーク明けの放課後のことだった。よく晴れた日で心地良い風が昇降口から吹き込み彼女の黒髪のショートボブを揺らす。

 恋ヶ窪綾華こいがくぼあやかは下駄箱に手を伸ばした。掴んだのは靴、ではなく白い封筒だった。

「なんだろう?」と訝しむ反面「まさか!」という期待とも不安ともつかない予感が湧き上がる。周囲には他に生徒はいなかった。皆、部活などで居残っているのだろう。綾華は文芸部に所属しているが、気が向いたら行けばいいという緩い活動方針なので今日はさっさと帰ることにしたのだ。

 とにかくここから離れよう。誰にも見られることがないよう、一人で読みたい。綾華は急いで引き返す。教室にはまだ何人か残っていたはずだ。となると図書室か。いや、背後から見られるかもしれない。誰かが入ってきて声をかけてくるかもしれないし……。

 結局、綾華は一番近いトイレの個室に入り鍵を閉めた。なんて色気のない場所だろうと思う。だが、まだこれがだと決まったわけではない。落ち着くんだ。綾華は芳香剤が香るトイレで深呼吸をすると恐るおそる封筒の中から便箋を取り出した。


「恋ヶ窪綾華様


 入学式の日に一目見た時から笑顔が素敵だなと気になっていました。好きです。

 直接会って返事を欲しいのでよければ、午後四時半に自習室棟裏まできてください。


          二年四組 加藤風馬」


「どうしよう……」

 思わず個室で呟いていた。

 無骨な字で書かれた手紙。それに走り書きのようで丁寧とは言い難い。文面もちょっと簡素な気もするが男の子の書く手紙というのはこんなものなのだろう。

 信じられない! この私がこんな手紙を貰うなんて! これはあれだ。ラブレターというやつだ。綾華は顔が真っ赤に染まっていくのを感じた。

 彼女はこの春、地元島根県松江市の私立南ヶ丘高等学校に入学したての一年生だ。クラスメイトや高校の授業という新しい環境にも慣れ、ゴールデンウィーク明けの五月病にも悩まされることなく一日を終えようとした矢先にまさかこんなことがあるとは。

 ラブレターを貰うのは初めてだった。しかも下駄箱に入っているという少女漫画のようなシチュエーション。知り合いにもこんな経験をした子はいない。もしかしたら隠しているだけかもしれないが。

 綾華は今まで男子と交際したことがない。中学ではいいなと思う相手はいたが、好きで夢中になるとまではいかなかった。彼女自身目立つ生徒でもないので言い寄られることもなかった。そんな綾華が、まだ高校に入って一ヶ月程なのに急にラブレターを貰うというビッグイベントの発生だ。彼女は戸惑いを隠せなかった。

 知らない先輩だ。まだクラスメイトにも名前と顔が一致しない人がいるのに、二年生など分かりようもない。文芸部の先輩の知り合いか? それなら然るべき手順を踏んで紹介されたりしないだろうか。手紙には入学式と書いてある。高校に入学したまさにその日だ。

 どうして私に? 一目惚れ? なんで?

 そんな疑問がグルグルと頭の中を駆け巡った。

 スマートフォンの電源をつける。校則で電源を切っていればスマホの持ち込みは許可されている。大抵守られていないが、綾華はこういう規則を守らないと、なんだか気が済まない性分なのだ。しかし今は緊急を要する。

 スマホで時刻を確認する。あと十五分しかない。

 個室から出て洗面所の鏡で自分の顔を見る。真っ赤だ。こんなちんちくりんの垢抜けない新入生に一目惚れする二年生がいるのか?

 綾華は自分のことを特別ネガティブな人間とは思わないが、そういう恋愛的自己評価は低かった。真新しい紺色のブレザーに赤色のリボン。まだ制服に着られている感は否めない。入学式の日に鏡で自分の姿を見た時の違和感。あの日は雨も降っていて湿気で髪型も決まらなかったなぁと思い出す。中学生の頃の紺に緑色のラインが入ったダサいセーラー服の方が自分にはお似合いだったかなと思った。

 そんなことより手紙だ。親友の翠に相談しようか。いや彼女は今部活中だ。待っていたら当然、呼び出しの時間に間に合わなくなってしまう。ここから自習室棟は遠い。

 どんな人だろう。断る分にも行った方がいいよね。かっこよかったらいいな。そう期待しつつ、髪を手櫛で整えた。


 *


 動悸が早鐘のように打っていた。自習室棟は校舎とは繋がっていないので、外に出る必要がある。だからせっかく手櫛で整えた前髪も向かい風で台無しになってしまった。なぜまだ見ぬ先輩にこれだけ気を使うのか。疑問に思うのだが、それもラブレターの効果なのだろう。

 自習室棟は二階建てでその名の通り、自習室と呼ばれる勉強のための大部屋がある。しかし解放されるのは定期テストの一週間前からである。したがって正面玄関に人の気配はない。自習室棟は十年程前に同窓生らの寄付により建設された比較的新しい建物であり、十年来の汚れなどはあるが、校舎に比べれば壁はまだ白くて多少清潔そうな印象だ。

 綾華はドキドキしながらスマートフォンで時刻を確かめる。十六時三十五分。トイレでぐずぐずしていたので呼び出しの時間より五分過ぎてしまった。諦めて帰ってしまっただろうか? だが五分くらいなら待っていてくれるだろう。なんだかそんな気がした。

 とにかく相手の顔を確かめよう。自習室棟裏と手紙には書いてあった。正確に裏というのがどこに当たるかはわからないが、建物の周りを巡れば良い。そう思い自習室棟の左手に回った。建物の陰に身を潜めてフーッと息を整える。遂に対面だ。緊張がピークに達する。綾華はまるで自分が呼び出した側であるかのように錯覚した。

 角を曲がった向こう側。そこに自分を呼び出した加藤風馬という二年生がいるはずだ。綾華はそっと建物の陰から顔を覗かせた。

 あれ? と声に出しかけた。角の向こうには誰もいない。ただ自習室棟の裏手に続く通路があるばかりだ。

 そうか、自習室棟裏というからには建物の裏手だ。手紙にもちゃんと書いてあったじゃないか。綾華は自分のせっかちさを自嘲すると共にほっとした。まだ対面に猶予がある。そのまま綾華は通路を進み曲がり角の手前までやって来た。

 いよいよだ。この向こうに加藤風馬先輩なる人物がいるはずだ。綾華はもう一度呼吸を整える。先程よりは落ち着いている。肩透かしを食らった形だったがあれで緊張が解けたのだろう。さっきと同じように綾華は壁からそっと顔を覗かせる。

 ——いない。

 そこには誰もいなかった。カーテンで閉め切られた窓が並び、雑草が伸び放題の裏庭ともいうべき地面が広がっている。

 おかしいな。確かにここは自習室棟の裏手だ。もはや動悸は落ち着いていた。綾華はスタスタと中央付近まで歩いた。

 きょろきょろと辺りを見回す。隠れているのだろうか? しかし人が隠れるような場所などここにはなさそうだ。

 もしかして建物の右手側だったか。しかし右手は来る途中に目に入ったが誰もいなかった。だからこそ綾華は左手から建物を回ったのだ。だが一応と思い今度はせかせかと建物の右手まで回り込む。予想通りそこにも誰もいない。綾華は裏手に戻ってさらに十五分程待ってみた。誰もやって来る気配はない。裏口の銀色のアルミサッシの扉からガチャっと出てきたりしてなどと空想してみる。

 しかしいくら待ってみても何の変化も起きなかった。グラウンドから聞こえる野球部の掛け声や、吹奏楽部の楽器の音が虚しく響くばかりだった。

 綾華は訝しむ。むむむ、これはおかしいぞと思った。

 呼び出しの時刻に五分遅刻している。諦めて帰ったとも思えるが、果たして好きな人を呼び出して告白しようという時にたった五分過ぎたくらいで帰ってしまうものだろうか。もっと待ってみてもいい気がする。それが人情というものだろう。

 綾華自身、告白するために人を呼び出すという経験がないのでわからないが、なんとなく疑問に思った。加藤風馬とはそれほどに時間に厳しい人間なのだろうか。だったとしたら自分なんかに告白しなくて正解だったかもしれない。

 もしかして! 最悪の可能性が浮かぶ。

「騙された……」

 これは新入生の女子を偽物のラブレターで呼び出すというイタズラなのだろう。どういう訳かはわからないがどうやら自分はそのターゲットに選ばれたのだ。

 加藤風馬か、それともその仲間達がどこかに身を隠して、今まさにこちらを指差して笑っているに違いない。なんて酷い先輩だろう!

 綾華は今度は怒りで顔が真っ赤になった。

 もう一度周囲を睨み付けるように見渡した。押し殺したような笑い声や、人が潜んでいる気配はない。もしかしたら建物に入り込んで自習室の窓から覗いてるかもしれない。振り返り窓を見上げようと思ったがやめた。まんまとその手に乗ってメソメソ泣き出しそうな顔を見せてやるものか。綾華は肩を怒らせながら雑草を蹴散らして急ぎ足に自習室棟をあとにした。

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