第15話 雪の中に、春を灯して
静けさが雪のように降っていた。
山を登る道は、細く、ひたすらに白かった。歩くたびに、足音が吸い込まれていくような感覚。雪は深くはないけれど、しっかりと根を張った冷たさを持っていた。
ここは奈良・吉野山。春には“千本桜”と謳われる花の名所。だが今は冬、花の気配はどこにもない。枝は黒く、空へ向かって静かに伸びていた。
「ここに、春には桜がこぼれ落ちるほど咲きます」
芭蕉が、山の斜面を見渡しながらつぶやいた。
「だが今日は、代わりに“雪花”が咲いていますね」
確かに、そうだった。
無数の枝々に積もった雪は、まるで凍りついた花びらのように見えた。色はないのに、気配だけは華やかだった。
「逆季語って、知っていますか?」芭蕉が問いかける。
「聞いたことはあるけど……季節に反した言葉、ですよね?」
「そう。たとえば、この冬の吉野で“春”を詠むように。現実にないものを、想像の力で立ち上げる。それは、詩にしかできないことです」
僕はしばらく黙ったまま、凍った木立を見つめていた。
春には無数の花が咲き、人々が訪れ、にぎやかな音が満ちる場所。
でも今は、誰もいない。
そして、その“誰もいない今”のほうが、心に沁みた。
思い浮かんだのは、凛のことだった。
伊勢神宮を出たあたりから、メッセージのやり取りが少なくなっていた。
喧嘩したわけじゃない。けれど、お互い、少し距離を置くことを選んだように思う。
彼女は彼女で、考えている。進路のこと。自分の居場所のこと。
僕も、そうだ。
詩とどう関わっていくのか、未来に何があるのか。
分からないからこそ、今は言葉にならなかった。
でも。
だからこそ、見えない春を、信じたかった。
白く沈黙する枝の向こうに、やがて咲く花の気配を。
僕はノートを開き、そっと詠んだ。
吉野山 雪花のぼる 千本桜
その句を声に出したとき、自分でも不思議なほど胸が静かだった。
まだ来ていないものを、今ここに書く。
それは嘘ではなく、祈りだった。
芭蕉が目を細め、ゆっくりと頷いた。
そして、静かに口を開いた。
冬の枝 記憶に咲ける 花の音
「桜は咲いて散るものです。しかし、咲く“前”にも、確かに存在しています。詩とは、そうした見えないものに、先んじて名前を与える行為です」
芭蕉の声は、まるで風のようだった。冷たくはない。耳元でやさしく揺れるだけ。
空が少しだけ色を変えてきた。
雲の切れ間から光が差し、雪の上に淡い影を作る。
どこまでも静かな、でも確かに希望を孕んだ時間だった。
足元の雪を踏みしめながら、僕たちは再び歩き出した。来るべき春を、胸に灯しながら。
📜 物語の中の俳句(第15話)
悠人の句 吉野山 雪花のぼる 千本桜
AI芭蕉の句 冬の枝 記憶に咲ける 花の音
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