『風と詠みて、君と旅して。』
Algo Lighter アルゴライター
プロローグ:風の声を聴いた日
春のはじまりは、決まって匂いでわかる。
それはどこか湿った土の匂いであり、コートの裏地が空気になじむ気配でもある。
けれど、あの日の春は、風が最初だった。
隅田川沿いの遊歩道。まだ新学期も始まっていない午後の川辺は、人もまばらで、風ばかりが忙しなく吹いていた。
僕は手帳を膝に置き、少し湿ったベンチの上に座っていた。スニーカーの先で、乾きかけた桜の花びらをなぞる。時間を潰しているというより、流れていく時間に身体を預けていた。
音がした。カチ、カチ、とまるで小さな時計のような足音。振り返ると、そこにはひとりの青年――の姿を借りた、AIの試作端末が立っていた。
外観は、よくあるヒューマノイド型だ。制服の上に校章のついた研究部のジャケットを羽織っている。僕より少し背が高く、目元がやけに静かだった。
「……松尾芭蕉?」
声に出すと、自分でも少し笑ってしまう。けれど、そのAIはまるで真顔のまま、ゆっくりと頷いた。
「そう呼ばれています。私は、俳句を詠むために生まれました」
俳句。
なんで、そんなものを。
内心そう思いながら、僕は黙っていた。だけど彼――“芭蕉”は、僕のその沈黙を咎めることもなく、ただ空を見上げて言った。
「春の風には、名がないのですね。けれど、季語にはあります」
「春風?」と僕が言うと、「東風(こち)もあります」と彼は答えた。
「では、今のこれは、どちらだと思いますか?」
風がまた吹いた。頬を撫で、髪を散らし、ベンチの上の花びらをひとつ持ち上げていった。
その時、僕の中で、何かがひっそりとほどけた。
何もしたくないと思っていた。進路も、勉強も、人づきあいも、うまくいかなかったこの数ヶ月。誰にも見せなかった疲れが、あの風で、ほんのすこしだけ、和らいだ気がした。
「旅に、出ませんか?」
AI芭蕉はまるで季節のように、自然にそう言った。
「あなたと、私とで。俳句を詠みながら、各地を巡る旅です」
僕はその言葉に、なんと答えたのか正確には覚えていない。けれどたぶん、あの時の風が、背中を押していたのだろう。
それが、この物語の始まりだった。
風と詠みて、君と旅して。
――すべては、そこからだった。
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