駆け巡る草原の鹿

椋鳥

僕の名前、貴方の名前

「きれい」彼女はそう言い、僕を見る。ルビーのような赤い瞳や、とろけるような桃色の髪。幼い彼女を表す言葉としては、その言葉が似合うだろう。逆にその言葉を送られ、僕は困惑する。


「誰?」僕は問い、彼女を見上げる。大きな木の下で、見覚えのない草原に囲まれて。空がやけに明るくて、雲も少ないように見える。


「え?」彼女は手をわらわらと、顔の前で震わせる。何かをしないといけないのに、何かを言わないといけないのに。僕はただ、彼女に寄り添うことしかできない。彼女に触れることが怖くて、それでも僕は少しだけ近づく。


「ごめん」無意識のことで、僕に感覚はない。反射的に出た言葉が、僕をまた困惑させる。何もわからないまま、日が落ちていくのが妙にもどかしい。


「おや」そんな混沌とした状況を破るのは、大きな影。肩幅が広く、腰に剣を携えている男性。男性は僕と彼女を交互に見ると、問う。どうした?と。


「テロが、私の」彼女はしゃくりあげるようにして、目をこする。草が妙に湿っているのが伝わってくる。この草原には、雨が降っていたらしい。


「……アン?」男性は彼女に寄り添うようにして、語りかける。今までのことが何もわからなくて、今のことすらわからなくて。僕はアンを見上げる。


「私の、名前を」そこから先は、聞き取れなかった。大きくてか弱い声が、草原に響いた。その時やっと、僕は彼女のことを傷つけたんだと理解した。


「……」男性は、僕とアンを抱きしめ、静かに温める。まだ春先だからか、冷たい風が少しだけ吹く。アンは腕の中でだんだんと眠りについていき、それに釣られるように僕も眠る。水滴と感情のせいでぐちゃぐちゃな僕を、優しく陽が照らす。アンも同じような陽に温められているといいな。そう思って、夢を見る。


「起きたのか!」男性は一瞬目を大きく開けて、笑顔を見せる。男性が言うには、僕は3日も寝ていたらしい。アンはとっくに目覚めていて、もう元気に過ごしているとも。


「貴方は?」男性は目を細めて、僕が横たわるベットの上に座る。小さな机の上から盃を、僕に差し出す。僕はそれを一気に飲み干し、盃を置く。男性は僕の頭をくしゃくしゃにする。


「父親だ」忘れちまったとしてもな。と口だけを動かす男性。何故かやるせないような、もやもやとした気持ち。そんなものが溢れ出てくる。


「僕は……」ここに居て良いのか?記憶をなくす前の僕ならともかく、記憶のない僕は息子足り得るのか?アンのことも何もかも、僕は忘れている。


「テト」彼は強く、しなやかに告げる。僕は目をそらすことが、どうしてもできなかった。その名前が自分のことを指すのかも、今一飲み込めない。けれど、その名で生きても良いとだと。そう言ってもらえたような気がして、僕は目を閉じる。




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