第4話
眩しい朝日で目が痛かった。目だけじゃない、変な体勢で寝たせいか全身が筋肉痛だった。
「ん、起きたか? おはよ」
目が覚めて、知らない和室の低い天井をベッドの上から見ていた。声が聞こえた方へ顔を向けると、静樹の顔を隣で見ている旭と視線が合った。お互い薄いタオルケットを腹にかけているだけで、服を着ていなかった。
「えっと。あ……の」
「うん」
にっと笑いかけられる。二日酔いで頭が痛いのもあったが、それ以上に、使ったことのない全身の筋肉があちこち悲鳴をあげていた。どこからが夢で、どこからが現実か全ての記憶があいまいだった。
昨夜、静樹が今まで絶対に死ぬまで叶わないと思っていたイケナイ妄想が、一から十まで全て叶った気がする。
それが全て酒が見せた夢じゃないなら。
「旭、さん」
静樹は掠れた声で名前を呼ぶ。知らない部屋なのに、実家の静樹の部屋と同じ雰囲気だった。洋間じゃない畳の上にベッドが置いてあったから。
「よし。名前はちゃんと覚えてたな。で、どこまで記憶あんの? 途中で寝ちゃったしなぁ。静樹くんを二階まで運ぶの大変だった」
「あ、あの途中……って」
混乱した頭のまま、静樹は恐る恐る旭に訊いた。あやふやな記憶の中でも、とても気持ちよかったことだけは身体が覚えていた。
「途中は、そりゃ途中だろ。セックス。俺はイってないし寂しく一人でヌいた」
「ぅ、うん」
「お、照れてるな? まぁ、初めてだもんねぇ、お赤飯炊く?」
「い、祝うようなことなんですか」
「童貞卒業おめでとう?」
「俺、旭さんに挿れてないですよね」
「えぇ、挿れたい方だった? そりゃ悪かったな。そっちはご期待に添えなくて」
「いえ、そっちは……別に、したいとは」
「ま、良かったんだろ? 静樹くん超喜んで泣いてたし」
からかうような旭の声に段々と意識が覚醒してきた。
くあ、とだるそうに欠伸をした旭は、ベッドから体を起こした。上半身が裸でトランクス姿。その肌色と筋肉がバランスよく付いた体をいたたまれない気持ちで見つめている。
静樹も旭と同じようにパンツしか穿いていない。ありえない場所に何か入っていた違和感はあるので、間違いなく旭と寝たんだと思った。
酔って知らない男の人とセックスしてしまった。その事実にかぁぁと顔が赤くなる。
自分が望んだことだし、もちろん合意だし、後悔もしていないが、それ以外にとんでもないことを旭に言ってしまった気がする。
静樹もベッドから上体を起こした。近くの鏡台には寝癖が爆発している自分の自分が映っている。二本の毛束が頭の上で跳ねていて猫耳みたいになっていたので、慌てて両手で頭を撫で付けた。
「あの、旭さん、俺、昨日、もしかして変なこと言いました?」
旭は静樹に背を向けて、床に落ちているジャージを拾って穿いた。
「変なことって? あぁ、静樹くん幼馴染と結婚するんだろ」
そこまでの記憶は鮮明だった。大事なのは、そのあとだった。
「で、ゲイのお前は、彼女にノンケって嘘を貫きたいとか。あと一回くらい、男とヤりたかったって。だから俺が抱いたよ」
旭は着替えながら話していた。箪笥からTシャツを取り出して袖を通すと静樹の方へと振り返る。
「あってる?」
「……それは、はい。そうなんですけど」
「それはよかった」
素面ではっきりと自分の性について口にするのは、まだ戸惑いはあった。
今更どう取り繕ったところで、男と寝ることができたのだから、自分の性的指向は間違っていなかったのだろう。
親にも幼馴染の舞にも言ったことがなかった秘密を、旭に初めて口にしてしまった。
ずっと怖かったけれど、今は何だか少しだけ胸のつっかえが取れた気がする。
「あの、旭さんは……ゲイ、なんですか?」
いくら自分がそうでも、旭がノンケだったら男を抱くなんて嫌だったんじゃないだろうかと思った。訊かれた旭は静樹のその質問には笑うだけで答えなかった。
「あ、そうだ。ところでさ、アサ兄とずっとえっちしたかったって、あれ、どういうこと? それって中学生の時? まさか小学生とか?」
「なッ、なんで、それ!」
驚きで声が引きつる。
「んーアサ兄ってさ、山のふもとの家に住んでただろ、熊川さん。――俺さ、その人のことよーく知ってるよ。同じ歳だし? ……今も、よく会ってるからね」
にこにこと楽しそうに言う旭は静樹の頬に優しく触れる。
病気で亡くなっていて、もう二度と会えないと思っていた。その、アサ兄が生きていると分かった。嬉しいのにぱくぱくと口を開くことしかできなくて、なかなか次の言葉が続かない。
「どうした? 目丸くして」
「だ、だって……俺」
いくら酒に酔っていたにしても、地元で気が緩みすぎだった。田舎で隣近所全員身内みたいな場所だからこそバレることが怖かったのに。
「狭い田舎だからねぇ。同じ歳の人間なんて全員クラスメイトだろ」
ゲイであること以上に、ずっと厳重に封印していた自分の秘密を洗いざらい告白してしまったことが分かり、血の気が引く。同時に絶対に誰にも見られないように、部屋のベッドの下に隠していたエロ本を見られてしまったような羞恥がこみ上げてきた。
もちろん静樹は見つかるのが怖くて買えた試しがない。スマホの検索履歴だって綺麗なものだ。たまたまネットで目に入ったゲイ動画を勇気を出して再生したときは、あまりの過激さに、興奮よりは混乱の方が強かった。
きっと自分は長年の断片的な知識のせいで、性癖がこじれている。心も身体も知識も、全部が静樹のなかでかみ合わない。何もかもがバラバラで満たされない欲求に振り回されて苦しかった。
昨夜の夢が全て現実だったのなら、静樹が秘密にしていたことは、全部、旭に話していたし、酒でふわふわになっていた記憶は全部間違っていないのだろう。
「アサ兄のこと、だ、誰にも、言わないでください!」
膝の上にあったタオルケットを無意識に握りしめていた。
アサ兄への恋心は綺麗なまま、墓場まで持っていくつもりだったし、誰にも話すつもりなんてなかった。
「……それは……別に、言う必要ないから言わないけど」
「あ、あと、昨日変なこといっぱい言ったかもしれないですけど、ち、違うので、アサ兄では、あの全然。絶対、変な目で見たことなんてないし」
一度だけ見た過激な動画が罪悪感とともに頭の中でフラッシュバックした。
「変なことってそれ? 別に変とは思わなかったけどな? ま、思春期の欲望って、適度に発散しないと、こうなるんだなぁって俺は新しい発見があって面白かったよ?」
「し、思春期の欲望って、俺……そんなに色々……」
「俺はおねだりされて嬉しかったし、何より静樹くん可愛かったからさ」
顔を近づけられて、唇がくっつきそうな距離に旭の顔がある。顔が一瞬で熱くなった。大好きだった近所のお兄ちゃんとは少しも顔が似ていない人に、心臓が張り裂けそうなくらいドキドキしている。
「で、初めてのセックスは気持ち良かったかい? めちゃくちゃ酔ってたし、まぁ、あんまり覚えてないだろうけど」
「……ぁ。ぅ……は、はい」
「俺もすげー楽しかった」
多分、気持ちを誤魔化せないくらい顔から好きがあふれている。旭と出会って、本当の自分を全部受け入れられるってこんなに嬉しいんだって初めて知った。
(いくら、セックスしたからって、その人を好きになるとか)
長い間抑圧してきた欲望が全部満たされた途端、ただの男好きに成り下がってしまったんだって思うと、自分が汚い人間に変わったみたいで複雑だった。けれど今の好きだって感じている気持ちを自分では制御できない。
「静樹くんはさ……」
旭は、その先を告げるのに少し躊躇しているみたいだった。
「はい」
「アサ兄に会いたいの? よかったら俺が会わせてあげよっか、連絡できるよ」
旭の突然の提案に心臓がどくんと跳ねた。初恋のアサ兄が生きていて、また会えるかもしれないと思うと純粋に嬉しい。けれど同時にこんな自分は、もうアサ兄に会うべきじゃないとも思った。
旭と寝て、思い出を自分の手で汚してしまった。そういった種類の後ろめたさがある。
「あ、アサ兄……は、ずっと憧れで、だから……もう」
「ふーん。そっかそっか。ま、確かに気まずいよなぁ。静樹くんは憧れの人に、あーんなこととか、こーんなことをやって欲しかったわけで。あの頃と同じような弟分の顔しては会えないかぁ。恥ずかしいもんなぁ」
にこにこ、にやにやと旭に笑われてしまった。
「あの! ち、違うんです。本当、昨日のあれは、全部ただの妄想で! 実際にして欲しいとかは……思ってなくて、あんなこと」
「ほんとにぃ? アサ兄にして欲しいって言ってたけどなぁ?」
「ッ、ぅ。もう全部、言ってるし……俺」
静樹は恥ずかしくて頭を抱えた。
「――もしかして、初めてが知らないお兄ちゃんの旭くんで後悔してるの?」
「それは、してない、です。絶対に」
初恋のお兄ちゃんを重ねてセックスした後ろめたさはある。けれど、旭と寝たことを後悔はしていない。
それだけは、はっきり言えた。自分が前に進むために、どうしても必要なことだった。そんな気がした。目の間の旭だからこそ、今の本当の自分をさらけ出せたのだと思っている。
「そ? それなら、よかったよ。ご満足いただけたようで」
「……はい」
静樹が望んだことは全部、目の前の旭が叶えてくれた。それが現実だ。声が、どんどん小さくなる。
静樹は、この状況でどんな顔をすれば正解なのか分からない。全てが初めてのことばかりだったから。
「ま、静樹くんの理想のアサ兄じゃなかったかもしれないけど、俺も、そこそこいい線いってなかった? したいこと全部叶えてあげただろ?」
旭は口を押さえて肩を震わせて笑っている。
「か、からかわないで、ください」
「可愛い静樹くんを可愛がってんだよ」
いたたまれなくて穴があったら入りたい。
「俺、飯食うけど。静樹くん朝飯は? 卵焼きとおにぎりくらいなら出せるよ。あと漬物? 古漬け食える?」
「いえ……か、帰ります」
「そう? 下にシャツとか洗濯して置いてるし、夏だしもう乾いてるんじゃね? 昨日直したズボンは店に掛けてるよ」
旭はそう言うと先に下に降りていった。
静樹はベッドの上で頭を抱えた。
(どうしよう……俺、この気持ち、この先どうしたらいい?)
初めての経験が見ず知らずの男で、酒に酔った勢い。そもそも、右も左も知り合いばかりで息苦しく、ここにいても自分は誰にも受け入れてもらえないと思っていた。
だから、出て行った。
それなのに、その田舎に帰ってきたら、静樹の二人目の理想の人に出会ってしまった。
昨夜、旭は善意で抱いてくれたんだと思った。きっとかわいそうな野良猫に餌をやったくらいの気持ちだったのだろう。一度寝たくらいで、他人に自分が受け入れられたなどと浮かれちゃいけない。
そう無理やりに自分を納得させてベッドから立ち上がった。
近くにあった昨日借りた服を着て、静樹は一階に降り、居間に畳んで置いてあったシャツに着替えた。そして店にあった綺麗に穴ぼこを修理されたズボンに穿き替える。
居間に戻ると旭は隣の台所でコンロの前に立っていた。
「あの、お邪魔しました」
鴨居の下から顔をのぞかせ、静樹は旭の背中に声をかけた。
「おぉ。また、遊びに来いよ」
「え!」
静樹が思わず驚きの声を上げると、怪訝な声が返ってきた。
「えってなに? 俺、変なこと言った?」
この関係は一晩限りだと思っていた。また、と言われて本気で驚いていた。
「あの、あ……だから」
コンロの前にいる旭は、慣れた手つきで完成したばかりの卵焼きを皿の上にのせ包丁で切り分けた。そして皿を持つと台所と居間の間に立っている静樹のところまで歩いてきた。
「うん。だから、なぁに?」
白い歯を見せて爽やかな夏の朝にふさわしい笑みを浮かべられる。
「きっ、昨日は、だ! 抱いてくれて、ありがとう……ございました」
何とかお礼を伝えることができたが、それに対して旭からは大きなため息を返された。
旭は眉間にシワを寄せまじまじと静樹を見ていた。旭のセットしていない洗いざらしの前髪が乱暴に書き上げられる、旭の色っぽい垂れ目が細められた。
「不正解、全然駄目。昨日はもっと可愛いこと言ってくれたのになぁ。ほら、静樹くん、お口開けて」
「え」
「いいから、あーんして」
そう言って、何となくその語気に圧されて、静樹は言われるまま口を開けてしまう。旭は静樹の口の中にできたての卵焼きを突っ込んできた。大きめに切り分けられていたので口の中がいっぱいになる。
「っ、あ」
「で、実家帰るの? じゃあ、また、な?」
大きな骨張った手で頭をぐしゃりとかき混ぜられた。この関係に、また、があるらしい。心臓が一回喜んで、勝手に跳ねた。飛び上がるくらいに嬉しい。
こくこくと一生懸命に頷くと、満面の笑顔の旭に店の出口まで見送られた。
夏の太陽が用水路に反射して眩しい。
口をもぐもぐさせながら旭の家を後にして、朝の田んぼ道を歩いている。旭の卵焼きは甘い砂糖の味にちょっとだけ塩味がする、今までに食べたことのない絶妙なバランスの味だった。
(甘くて、しょっぱい)
初めての味。
実家の卵焼きの味は砂糖たっぷりでお菓子のように甘い卵焼きだった。けれど実家を出てから静樹は自分で新しく覚えただし巻きしか作らなくなった。そのどちらとも違う不思議な味。
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