第40話:卵と、にらめっこ
【アベニーパファー採卵から一日目】
翌朝、部室に入ると、私はまっすぐ水槽へ向かった。
採れた十二粒の卵は、透明の隔離ケースの底に散っていて、
斜めから差し込む光を受けて、宝石みたいにひとつずつ瞬いている。
(……ここから、どうやって“全部”孵化させるんだろう)
私は水槽の前に正座した。
じっと覗き込んでも、卵はただ静かにそこにあるだけで――
何ひとつ教えてくれない。
それでも、不思議と目が離せなかった。
ノートを開き、昨日のメモを清書する。
・主流の管理=親と同じ水槽で隔離ネットを使う
・欠点=親の餌の食べカスや糞で水が汚れやすい
・水質悪化と比例して卵はカビやすくなる
(……じゃあ、水を綺麗に保てばいい……?
こまめな水換え……いや、刺激が強いし……)
ひとつ考えては首を振り、また考えては書いて消す。
――凛先輩の声が蘇る。
『……自分でやってみろ。試行錯誤して』
(自分で……考えて……)
指先がほんの少し震えた。
“100%”なんて言ったけれど、本当は不安でいっぱいだ。
(でも……負けたくない。先輩に言ったからには、やりたい)
卵を覗き込む。
透明な粒の中央に、白い泡みたいな点が見えた。
――おそらく、受精卵の核。
(……これが赤ちゃんになるんだ)
胸の奥がきゅっとなる。
この命を守るためなら、どれだけ時間がかかってもいい。
私が諦めたら、この中の誰も生まれてこない。
そのとき――ふっと、考えが結びついた。
(……もしかして、親を完全に別水槽にして、
卵だけ“清潔な環境”に置けば……?)
思いついた言葉をノートに走り書きする。
(……あれ、これって……正解じゃない?)
自分の声が小さく震えた。
すると――。
「おはよう、ふく。昨日はどうだった?」
海月先輩が部室に入ってきた。
「おかげさまで! 凛先輩、部室まで来てくれたんですよ!」
「嘘? マジで!?」
「マジです!」
それから小さく、聞こえないほどの声で呟く。
(海月先輩が……出ていってくれたおかげなんですよ)
「なにか言ったか?」
「いえ、なんにも!」
慌てて首を振り、ふと思いついて身を乗り出した。
「そうだ! 先輩、お願いがあります!
あべとまめ……孵化するまで、先輩の水草水槽に入れてあげてくれませんか?」
「え!? フグ入れたくないよ。水草齧りそうだし」
「齧りません! あべとまめは賢いんです。そんなことしません!」
「……ほんとかよ。まあいいけど。お代はパンで許してやるよ」
「ありがとうございます! じゃあ今から、水合わせしますね!」
胸がどきどきしている。
卵を守るために、今の私にできることを――ひとつずつやっていくんだ。
「そうだ。カビないように薬を使うって言ってた。
海月先輩! 卵をカビないようにする薬ってなんでしたっけ?」
「メチレンブルーじゃないかな? そこの棚にあるから使っていいよ」
私は棚から小瓶を引っ張り出した。
「メチレンブルー、メチレンブルー……あったこれだ!」
柔らかいプラスチックの容器は、先端が点眼薬のように細く、
“1滴ずつ落とせる”ように作られている。
でも、使うのは今日が初めてだ。
青い液体が並々と入った小瓶は、まるで濃縮された青いインクみたいだ。
「卵を透明ケースに入れて……あれ?
薬ってどれくらい入れるんでしょう?」
つい海月先輩へ振り向きかけた。
「海月先輩! メチレンブルーって――」
(いけない、ちゃんと自分で調べないと)
口から出かかった言葉を寸前で飲み込む。
「何か言ったか?」
「いえ、聞こうと思ったけど、自分で調べることにしました」
「お、偉いじゃないか。凛の指導が効いてるな」
海月先輩の声に背中を押され、スマホを握りしめる。
『メチレンブルー 卵 量』と検索窓に打ち込むと、
すぐに情報が表示された。
「1リットルあたり1〜3滴……了解です!」
よし、分かった。
隔離ケースは……大体500mlだから、1~2滴でいい。
「……このくらいの力で、そっと押せば……」
一度にたくさん出ないよう、私は容器をゆっくり押した。
青い液体が先端から、一滴分だけ顔を出す。
(赤ちゃんを守るためにも、ここはしっかり慎重に……!)
震える手で、薬の容器を“そっと”押し込む。
ポタリ……一滴。
もう一滴。
――のはずが。
ブシューーー!!
「うわ、入れすぎた!!」
ケースの水は一瞬で濃い青に染まり、卵の姿は完全に見えなくなった。
喉がきゅっと詰まって、目の奥が熱くなる。
今にも涙がこぼれそうだった。
「おいおい、どんだけ入れたんだよ。
青の洞窟っていうか、もうブルーハワイだぞ」
海月先輩が呆れ半分に笑う。
「これ……大丈夫ですよね?」
「まあ、卵の殻は薬を通さないから。
青くはなってるけど、中身は平気だと思うよ」
私は青く染まったケースと先輩の顔を交互に見た。
(……本当に、100%孵化させられるのかな)
不安で胸がいっぱいになる。
でも――失敗も試行錯誤のうち。ここから立て直さなきゃ。
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