第29話:優しさの温度
玄関のドアを、気づかれないようにそっと開ける。
いつものように、お母さんの焼いたパンの香りがふわりと鼻をくすぐった。
けれど今日は、そのぬくもりが、なぜか胸の奥に痛い。
カチャリ。
気配を消すように、音を立てずドアを閉めた。
廊下を、足音を忍ばせるようにゆっくりと歩く。
(このまま……部屋に行けたら……)
階段に片足をかけた、その時だった。
「おかえり、彩花。帰ってたのね」
――届いてしまった。
キッチンから顔をのぞかせたお母さんが、エプロンの端で手を拭きながら歩み寄ってくる。
できるだけ何でもないふりをして、振り返れないまま答えた。
「あ……ただいま」
思ったよりも、声は小さかった。
お母さんは少しだけ間を置いて、静かに言った。
「……パン、渡せなかったのね?」
その言葉で、胸につかえていたものの糸が切れた。
握っていた手すりの力が抜ける。
「……うん」
振り返れなかった。
顔を見られたら、全部崩れてしまいそうで。
「凛先輩……泣いちゃって。
『思い出すから食べられない』って……」
「そう……」
お母さんは言葉を続けず、ただ私の頭をそっと包むように撫でてくれた。
その手のひらのあたたかさが、かえって涙を誘う。
堪えきれずに俯いた私を、お母さんはぎゅっと抱きしめた。
「彩花は悪くないわ。
ただ、凛さんの傷が、まだ深かっただけ」
「でも……私、独りよがりだったんだよ。
喜んでくれるって、勝手に決めつけて……」
お母さんはそっと腕を離し、私の目を見る。
「彩花。優しさにはね、“温度”があるの」
「温度……」
「熱すぎれば火傷する。冷たすぎれば凍える。
ちょうどいい温度を見つけるには、時間がかかるの」
お母さんの言葉が、胸の奥の柔らかいところに落ちていく。
「今回は、ちょっとだけ熱かったのかもしれない。
でも、彩花が凛さんのことを想ってしたこと、
その気持ちは、絶対に間違いじゃないわ」
涙が、ぽろぽろとこぼれた。
「……うん。ありがとう、お母さん」
お母さんはいつもの声で微笑んだ。
「いいのよ。今夜はカボチャのグラタン。たくさん食べなさいね」
その背中がキッチンに戻っていく。
私は階段を上りながら、そっと振り返った。
(次は……ちゃんと、凛先輩の“温度”を感じてから)
そう小さく誓って、部屋のドアを閉めた。
* * *
夜の部屋は静かだった。
天井を見つめながら、私は考えていた。
凛先輩のこと。
部のこと。
自分にできること。
……でも、何も浮かばない。
「はぁ……」
(海月先輩のこと、凛先輩のこと……どうしたら、元通りに……)
頭の中でいくらシミュレーションしてみても、笑い合える未来が見えてこない。
ぐるぐると同じ場所を回る思考に疲れて、私は枕元のスマートフォンを手に取った。
お気に入りフォルダをタップし、いつもの動画を再生する。
画面いっぱいに広がるのは、アベニーパファーの『あべとまめ』。
小さなヒレを一生懸命に動かして、二匹でじゃれ合うように泳いでいる。
「いいなぁ、君たちは……」
思わず、本音がこぼれた。
言葉がなくても、通じ合っているみたいで。
みんな、あの子たちみたいに、ただまっすぐでいられたらいいのに。
そのときだった。
突然、スマホが震えた。
「うわっ……!」
危うく落としかけたスマホの画面に表示されたのは、
『海月先輩』
「えっ……な、なんでこんな時間に……」
深呼吸を一つ。
そっと通話ボタンをスライドする。
『もしもし、ふく? 夜遅くに悪い。今、大丈夫?』
「だ、大丈夫です……!」
声が少し裏返った。
夜の静けさに、先輩の声がやさしく響く。
『凛のことなんだけど』
「あ……」
先輩の言葉に、さっきまでのんびり泳いでいた『あべとまめ』の姿と、泣いた凛先輩の顔が重なる。
『凛のことは、俺がちゃんと考える。今は凛のことをそっとしておいてやろう。それが一番いいと思うんだ』
「先輩……」
『それより、顧問のこと、部員のことを考えたい。前に話した新入生勧誘、やってみようか』
「……はい」
先輩の言葉には、迷いを溶かすような力があった。
ふくは目を閉じて、深く息を吸う。
『詳しくはまた明日、部室でな』
「あ、はい。頑張りましょう!」
通話を切ろうとした、その時。
『……おやすみ、ふく』
その一言に、ふくの心がふわりと温まった。
「……おやすみなさいっ!」
通話が切れたあとも、スマホを握ったまま動けなかった。
さっきまで冷たかった胸の奥に、
ただひとことの“おやすみ”が、静かに灯っていた。
あべとまめの動画は止まっている。
でも、心の中ではまだ、二匹が寄り添って泳いでいた。
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