第27話:お母さんのパン
「ただいま」
玄関のドアを開けた瞬間、香ばしいパンの匂いがふわりと鼻をくすぐった。
いつもなら、それだけで心がほどけるのに。
今日は、その温かさがどこか遠かった。
「おかえり、彩花。あら……元気ないのね?」
キッチンから顔を出したお母さんが、エプロンの端で指を拭いながら近づいてくる。
私は慌てて笑顔を作った。
「ううん、平気。ちょっと考え事してただけ」
「そう? ならいいんだけど……」
お母さんはそれ以上踏み込まなかった。
その“ほどよい距離”が、今はありがたかった。
「それより、デートは上手くいった?」
「だからデートじゃないってば!」
そう言うと、お母さんは楽しそうにくすくす笑う。
その笑いが、胸の重さをほんの少しだけ溶かした。
* * *
部屋に戻り、ベッドに倒れ込む。
まぶたを閉じると、あの赤い目が浮かぶ。
サリバトール。
虎模様のフグ。
そして――それを手放した、凛先輩。
(……どんな気持ちで、あの子を手放したんだろう)
胸の奥が、ぎゅっと痛む。
好きだったものを、大切にしていたものを、自分の意志で手放すということ。 それがどれだけ辛いことなのか、私にも少しだけ分かる気がした。
スマホが震える。
画面には、海月先輩からのメッセージ。
『今日はありがとう。ふくと話ができてよかった。……なんか、楽しかったな。明日も部室で待ってる』
その短い言葉を何度も読み返す。
頬が、ふわりと緩んでいくのが自分でも分かった。
(……少しくらい、デートっぽかったかも)
凛さんのことを考えると胸が痛むけれど、
先輩の隣で過ごした今日の時間が、その痛みを少しだけ和らげてくれる。
不思議だった。
悲しいのに、嬉しい。
苦しいのに、温かい。
* * *
夕食のテーブルには、お肉と野菜たっぷりのビーフシチューと、手作りのフランスパン。
湯気がふわりと立ち上る、いつもの温かい風景。
「ほら、彩花。今日はビーフシチューよ。たくさん食べて」
「うん……いただきます」
そんな中で、お父さんがにやりと笑う。
「なあ彩花。今度の釣り動画、一緒に出てくれよ。『親子釣りデート』ってタイトルでバズるぞ! 先輩も呼んで三人でコラボだ!」
「お父さんっ! だから違うってば! 変なタイトルつけないで!」
顔が一気に熱くなる。
真っ赤になる私を見て、お父さんは豪快に笑った。
その笑い声に包まれながら、私はふっと息を吐いた。
「……あのね、お父さん、お母さん」
「ん? どうした?」
二人が手を止めて、私を見る。
その視線に、少しだけ勇気をもらった気がした。
「部活で……色々あったんだ」
私は、ゆっくりと話し始めた。
近藤先生のこと。
海月先輩が守ってくれたこと。
顧問がいなくなって、部員も足りないこと。
そして――凛先輩のこと。
大切にしていたフグを失って、部を辞めてしまった人のこと。
サリバトールを手放してしまった、その理由のこと。
話しているうちに、言葉が少しずつ震えてきた。
「……私、凛先輩に戻ってきて欲しい。
でも、どうしたらいいか分からなくて……」
握った手が、震えた。
その上に、お母さんの手がそっと重なる。
「彩花が、凛先輩の“好き”を思い出させてあげたらどう?」
胸が熱くなる。
「でも、優しさだけじゃ届かないこともあるのよ。
心を開くには、きっかけがいるの」
「きっかけ……」
お母さんはふっと微笑んだ。
「その凛さんに、パンを届けてあげたら?
サリバトールの形をした……“サリバパン”」
その瞬間、胸の奥で何かが音を立てた。
「それだ……!」
思わず立ち上がる。
「お母さん、模様、作れる!? 赤い目とか!」
「そうね。生地は黄色、模様はココア、目はクランベリーにしましょう」
「やった! お母さん、お願いしてもいい!?」
興奮気味に言うと、お母さんは優しく頷いた。
「いいわよ。明日の朝、焼いてあげる」
「ありがとうございます!」
お父さんがスプーンを置いて言う。
「いいじゃないか。食べ物は、心をほどく」
「うん! 絶対、凛先輩に届けるんだ!」
胸の奥が、ぽっと温かくなる。
さっきまでの重たさが、少しだけ軽くなった気がした。
食後、お皿を洗いながら、お母さんがふと呟いた。
「彩花、頑張ってね」
「……えっ?」
「先輩さんのためにも、凛さんのためにも。
そうやって誰かのために動けるのって、素敵なことよ」
その言葉に、顔がじんわりと熱くなる。
「……うん。ありがとう、お母さん」
* * *
部屋に戻り、スマホを見つめる。
『また明日部室で』
明日は、海月先輩と話そう。
サリバパンを手にして。
凛先輩の心に触れるために。
あべとまめが水の中で揺れる姿が、そっと背中を押す。
(明日、頑張ろう)
そう思って目を閉じると、今夜は――眠れそうだった。
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