第5話:泣き虫な先輩と、まっすぐな私

 凛さんは海月先輩の呼びかけに振り返った瞬間、

 何も言わずにくるりと踵(かかと)を返し、

 すぐに背を向けてショップから逃げるように歩き出した。


 夕焼けの商店街で、黒いフードが風に揺れ、

 人混みに紛れるようにして早足で去っていく。


 その背中は、明確な拒絶を示していた。


「待てよ、凛!」


 先輩は一瞬固まったが、

 私の腕を軽く引き、「行こう」と短く言って追いかけた。


 私も慌てて後を追い、息を切らしながら商店街の通りを駆け抜ける。


 商店街を抜け、少し寂れた路地に入ったところで、

 先輩がようやく凛さんの腕を掴んだ。


「離して」


 フードの奥から、低く冷たい声が響く。

 その瞳には警戒と疲労を湛えていた。


「なんで逃げるんだよ」


 先輩の声には、怒りよりも戸惑いや寂しさが滲んでいた。


「海月(くらげ)には関係ないだろ」


「関係なくない。あんなやめ方して」


 凛さんは掴まれた腕を振り払うと、忌々しげに私たちを睨みつけた。

 その視線はガラスの破片のように鋭く、私は思わず息を呑む。


「部に戻る気はない。それだけ言いに来たわけじゃないだろ。

 用がないなら、もう行く」


「もうあいつらは、いないんだ…だから、戻って来てくれないか、凛」


「俺は、もう熱帯魚を飼うのをやめたんだ。ほっといてくれ」


「じゃあ、なんでこんな場所にいたんだよ」


 言い返すことが出来ない凛さんをみて、先輩が私の背中を軽く押す。


 凛の視線が値踏みするように私に向けられ、心臓が小さく跳ねた。


「新しい部員だ。もう一度やり直さないか。

 今度こそ、あんな事はさせないから」


「あの、私、福原彩花って言います!

 ポスターに描いてあった、虎みたいなフグの絵を見て、すっごく感動して……!」


 勢い込んでそう言うと、凛さんの表情がほんの少しだけ揺らいだように見えた。


「どうしてもあの子に会いたくて、アクア部に入ったんです。

 凛さんが描いたんですよね? あの絵、すごく素敵でした!」


 私の言葉に、凛さんはふいと顔をそむける。

 フードの影で表情は読めない。


「……あいつは、もういない」


 ぽつりと呟かれた声は、ひどくかすれていた。


「凛」


 海月先輩が、諭すような、それでいてすがるような声で呼びかける。


「こいつは、お前が始めたものを見て、ここに来たんだ。

 お前がいた頃のアクア部を、俺はなくしたくない」


 その言葉に、凛さんの肩が微かに震えた。


「……俺に、あそこにいる資格はない」


 絞り出すような声だった。

 その声は、確かに少女のものなのに。


(……俺?)

 あまりに不釣り合いな、硬い一人称。

 それが、彼女が纏う黒いフードと同じ、拒絶の鎧のように思えた。


 深く、深く沈むような言葉だった。私は何も言い返せなかった。


「俺のせいで、全部めちゃくちゃになった。

 生き物を不幸にするくらいなら、初めからいない方がいい。

 あんな思いは、もう二度とごめんだ」


 その声に宿る痛みの深さに、私はかける言葉を失った。

 それは、ただの後悔ではない。


 取り返しのつかない何かに対する――癒えない傷の痛みだった。


「違う、お前のせいじゃ…」


「もういい」


 凛さんは海月先輩の言葉を遮ると、一度だけ、真っ直ぐに先輩の顔を見た。

 その瞳は、悲しいくらいに澄んでいた。


「じゃあな、海月(くらげ)。……新しい部員と、せいぜい仲良くやれよ」


 それは、皮肉のようであり、祈りのようでもあった。


 凛さんは今度こそ、振り返らなかった。


 黒いパーカーが雑踏に吸い込まれるように消えていくのを、

 私たちはただ、見送ることしかできなかった。


「……すみません、私、何か変なこと言っちゃいましたか?」


 重い沈黙を破ったのは、私の不安げな声だった。


 先輩は、凛さんが消えた方をじっと見つめたまま、

 ゆっくりと首を横に振った。


「いや、お前のせいじゃない。…あいつは、優しいんだ。

 優しすぎて、全部一人で背負っちまうだけで」


 そう言って小さく息を吐いた先輩の横顔は、

 今まで見たことがないくらい、寂しそうに見えた。


 路地の壁に寄りかかり、ずるずるとしゃがみ込んでしまう。

 夕暮れの薄暗がりが、先輩の心を映しているみたいに、どんよりと重い。


(……どうしよう。せっかく見つけた私の居場所が、このままなくなっちゃうのかな)


 不安が胸をよぎる。

 でも、ここで私が一緒にしょんぼりしてどうするんだ。


「よっし!」 ぱんっ!


 気合と共に、自分の両頬を力いっぱい叩いた。

 乾いた音が、静かな路地に鋭く響く。


「お前、なにやってんの? ほっぺ真っ赤だぞ」


 顔を上げた先輩が、怪訝そうに眉をひそめる。


「気合注入です! 先輩もやりますか?」


 私はしゃがみこむ先輩の前に立つと、ぐっと胸を張った。


 私の突拍子もない提案に、先輩は呆れたように――

 でも堪えきれないといった様子で声を上げて笑った。


「私、アクア部に入って、本当によかったです!」


 先輩の笑い声に、私は続ける。


「凛さんのことは、まだよく分かりません! でも、私には先輩がいます!

 それに、私、絶対に諦めませんから!」


 私はぐっと拳を握りしめる。


「さっき会ったアベニーパファー! あの子を迎えに行きます!

 私が世界で一番幸せなフグにしてみせます!


 だから…だから先輩! 私を一人前の部員にしてください!」


 私の言葉に、先輩は笑いを収めて、ぽかんと口を開けていた。


 やがて、こらえきれないというように、もう一度ふっと息を漏らす。


「…ははっ。お前、ほんと…変わったやつだな」


「変わってません! 大真面目です!」


 私がむっと頬を膨らませると、

 先輩は「いや、褒めてんだよ」と言いながら、ゆっくりと立ち上がった。


 その顔にはもう、さっきまでの寂しそうな影はなかった。


「…ありがとな、福原」


「え?」


「部室、戻るぞ」


 先輩はいつもの少し気だるそうな、

 でもどこか吹っ切れたような顔で笑う。


「アベニーパファーのお迎えの準備、しないとな」


 その言葉に、私の顔がぱあっと輝く。


「はいっ! 先輩!」


 元気よく返事をして、先輩の隣に並んで歩き出す。


 来た時よりも少しだけ暗くなった空を見上げて、

 私はお腹が鳴るのに気づいた。


「先輩! 部室に帰る前に、肉まん買いませんか? お腹すいちゃいました!」


「お前なあ、さっきまでの深刻なムードはどこいったんだよ」


 呆れたように笑う先輩の声が、なんだかすごく嬉しかった。


 私の高校生活は、まだ始まったばかりだ。

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