第31話:あべとまめの卵

 部室棟へと続く渡り廊下を、楓と並んで歩く。

 放課後の光がガラス越しに差し込み、足音が軽く反射していた。


「ねえ彩花、この前教室に来た人ってさ……彼氏?」


「ち、ちがうから! 同じ部の先輩だよ、海月(うみつき)先輩!」


「へぇ〜。じゃあ今はその海月って先輩と、二人だけなんだ?」


「う、うん……まあ、そうだけど……」


「ふーん。なんかいい感じじゃん。もうデートしたの?」


「――っ!」


 顔が一気に熱くなる。私はうつむいたまま、言葉が出なかった。


 沈黙を見た楓ちゃんが、目を丸くしてニヤッとする。


「え、マジ? デートしたんだ」


「ち、ちがっ……! アクア・リュミエールでミーティングしただけ!」


「いやそれ、ほぼデートでしょ〜」


 楽しそうに笑う楓を横目に、私はどう返していいか分からず、ただ、前を向いて歩いた。


(……やっぱりデート、だったのかな)


そう思うと、胸の奥がじんわりと温かくなる。

あの日の先輩の横顔を思い出して、頬が緩みそうになるのを必死にこらえた。


 * * *


 アクア部の部室に着く。

 ドアを開けた瞬間、静かな水の音が迎えてくれた。


「あれ……海月先輩、まだ来てないんだ」


 部屋の中は薄い夕陽に染まっていて、誰もいない。

 ポンプの音だけが、ぽこぽこと響いていた。


「まあ、入って入って! これが私のアベニーパファー、『あべ』と『まめ』! 」


楓ちゃんが「へえ」と顔を近づけた。


「ちっさ。……でも、黄色くて、なんか可愛いじゃん。豆みたい」


「でしょー! この子たちがね――」


説明しようとした、その時。


「ん……?」


水槽の中の様子が、いつもと違う。


穏やかだったはずの『あべ』が、突然『まめ』を激しく追いかけ回し始めたのだ。


「え……? アベが、まめを追いかけ回してる……? 」


「うわ、なんかこれ虐められてない?」


「えーーーっ!? うそ、いつもはこんなことしないのに!」


私の心は、不安と疑問で一気にいっぱいになった。


まめは必死に逃げ回り、水槽の隅、水草が作り出す天然の窪みに、体をねじ込むようにして潜り込んだ 。


それなのに、あべは泳ぎ去ろうとしない。

まるで獲物を睨みつけるみたいに、水草の影をじっと狙っている。


「先輩いないのに、どうすればいいの!? これ、止めたほうがいいのかな!?」


「他に相談できる人いないの?」


 いる。一人、いた。


――凛先輩。


「……一人、いるけど。聞けない」

「なにそれ?」


私がためらっている間にも、事態は悪化する。

あべが、まめの隠れている水草の茂みに、ついに突っ込んだ!


体をグイグイと押し付け、激しく、まめのお腹を突き上げている!


そして、まめが水草から押し出された瞬間、あべが覆いかぶさるようにして体を密着させた。


「どうしよう! どうしよう! あべがまめを!」

私はもう、冷静ではいられなかった。


次の瞬間――二匹の体が、まるで共鳴するかのように、小刻みにぷるぷると震え始めた。


 その動きは、呼吸を忘れるほどに激しくて、でもどこか神聖だった。


「彩花、これ、オスとメスなんでしょ? ……交尾なんじゃない?」


「え?」


 次の瞬間。


 ぷるん、と。


 光が弾けるように、小さな透明の粒がいくつも舞った。


(……たまご……)


私は、呆然と呟いた。


「卵だ!」


次の瞬間、私は世界で一番大きな声が出たんじゃないかと思うくらい叫んでいた。


「すごい! 楓ちゃん! あべとまめが卵産んだよ!」


「ほんと!? すごいじゃん彩花!」


 胸がいっぱいになった。

 でも、喜びよりも早く、不安が押し寄せる。


「でも、これどうしたらいいの!? 先輩いないし、このままほっとけないし」


 卵は、水草の間にぽろぽろと落ちていく。


 私は水槽の前でうろたえながら、手を宙に泳がせる。


「……ダメもとで聞きに行けば?

 ほら、彩花って、そういう時だけすごいじゃん」


楓ちゃんが、部室の扉を指さした。


「ダメもと……でも――」


凛先輩の、泣き顔が浮かぶ 。

パンを拒絶された、あの時の冷たい空気が蘇る 。


でも―― 目の前には、生まれたばかりの、キラキラした命。


「……行ってくる!」


私は叫ぶと、部室を飛び出し、凛先輩がいるはずの教室へ向かって全力で駆け出した。

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