第15話:アベニーパファーお迎えの日
水槽の濾過を立ち上げるために、先輩と約束した一週間が――ついに過ぎた。
そして今朝。
パチッと目が覚めた瞬間、脳裏に浮かんだのはただ一つ。
(今日、あのアベニーパファーをお迎えできるんだ!)
ベッドから跳ね起きる。窓から差す朝の光さえ、今日は祝福みたいに見えた。
「アベニー、アベニー、まっててねっ♪」
即興のメロディを口ずさみながら階段を駆け下りる。
リビングにはパンの焼ける香ばしい匂い。
お母さんが振り向き、嬉しそうに目を細めた。
「今日は一段と早いじゃない」
「だって今日なんだよ! アベニーが来るの!」
「そう。ずっと楽しみにしてたもんね。……お祝いに“アベニーパン”、焼こうかな」
「え!? 本当に!? 先輩にも見せたい!」
パンを頬張り終える頃には、胸の高鳴りがもう抑えきれなかった。
「いってきます!」
「いってらっしゃい。気をつけてね、彩花」
その声を背に、私は玄関を飛び出した。
この日のために、先輩と二人。
あのちょっぴり埃っぽいけど秘密基地みたいな部室で、来る日も来る日も、水槽の神様のご機嫌をうかがいながら準備を重ねた。
今日という日は、私にとってまさしく“運命の記念日”だ。
放課後のチャイムが鳴り終わるのを待ちきれず、部室へ駆け込む。
まだ誰もいない。
主役の登場を待つ舞台のように静まり返った『ふくの城』が、コポコポと命の産声みたいな泡を立てていた。
やがて、部室のドアがゆっくりと開く。
「――よし、行くか」
鼓膜を震わせたのは、低くて静かな、それでいて不思議な安心感を与えてくれる先輩の声だった。
夕陽が埃っぽい机の列の向こうから淡く差し込み、先輩のシルエットを黄金色に縁取っている。
水槽から聞こえるコポコポという水の音が、私の高鳴る鼓動とシンクロするようだった。
「海月先輩っ! 早く行きましょう! アベニーパファーたちが、私たちを待っていますよ!」
逸る気持ちを抑えきれず、私は先輩の袖をちょんちょんと引っ張る。
先輩は、そんな私を面白がるように目を細め、気だるそうに――でもその声色には確かな優しさを乗せて言った。
「焦るな、ふく。楽しみで仕方ないのは分かるが、逸る気持ちはフグにも伝わるぞ?」
「だって、本当にフグが好きになってしまいました! 世界で一番!」
胸を張って即答すると、先輩は「知ってるよ」とでも言うように小さく笑った。
つられて私も笑い返すと、その無防備な笑顔に胸の奥が、きゅんと甘く締めつけられた。
(こ、これって……いやいや、気のせいだよねっ!?)
先輩と一緒にたどり着いたアクアショップは、何度来ても圧倒される別世界だった。
壁一面に並ぶ水槽、水槽、水槽!
色とりどりの熱帯魚たちが優雅に舞い泳ぎ、店内に響く無数の水音が、まるで心を洗い流すヒーリングミュージックのようだ。
私は他の魚には目もくれず、一目散にアベニーパファーの水槽へダッシュした。
「はぁ……よかったぁ……まだ、いました……!」
小さなガラスケースの中で、豆粒みたいな子たちがちょこまかと泳いでいる。
その姿を見た瞬間、安堵のため息が漏れた。
「慌てるな。ちゃんと元気そうな個体を選べよ」
先輩が、いつもの落ち着いた声で背後からアドバイスをくれる。
私は水槽に顔をぐっと近づけ、目を皿のようにして一匹一匹を観察した。
二十匹ほどが小さな群れを作って泳いでいる。
(ああ、どの子も可愛くて選べない……)
すると、先輩がすっと水槽のガラスを指さした。
「ほら、あれがオス。で、こっちがメスだ」
「えっ!? 先輩、オスとメスって見ただけで分かるんですか!?」
まるで魔法使いみたいだ。
私の尊敬の眼差しに気づいたのか、先輩は少しだけ口角を上げて、ほんのり自慢げに解説してくれた。
「まあな。オスは目の周りに、こう、白いシワが多い。体の斑点が尾びれの方までくっきり伸びてる。
メスは見ての通り、全体的にまるっとして、側面のスポットが丸いんだ」
「やっぱり先輩って凄い! 何でも知ってるんですね!」
私が素直に感嘆の声を上げると、先輩はふっと視線を遠くに向け、少しだけ寂しそうに呟いた。
「……といっても、俺も凛に教えてもらっただけなんだ」
その言葉に、胸がちくりと痛む。
やがて、私は意を決して指をさした。
「こ、このキリッとした目のオスの子と、この丸くておっとりしてそうなメスの子がいいです!」
こうして――我が『ふくの城』の最初の住人、オスの「あべ」とメスの「まめ」が決定した!
店員さんが手際よく二匹をビニール袋に移してくれる。
袋の中で、少し不安そうに、でも元気に泳ぐ姿を見て、私は心の中でそっと囁いた。
(あべ、まめ。これからよろしくね)
ビニール越しの水が光を受けてきらりと揺れ、
その小さな命たちは、まるで新しい世界への扉を、今まさに開こうとしているように見えた。
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