第12話:アクア部の日常(其の一)
【アベニパファーの水槽の濾過を立ち上げるまでの1週間…】
【1日目】:気まずいおはようと、ピンク色のシグナル
昨日の出来事が、まだ瞼の裏に焼き付いている。
先輩の寂しそうな横顔。こらえきれずに溢れた私の涙。
そして、困ったように差し出された、温かいハンカチ。
(……どんな顔して会えばいいんだろう)
翌日の放課後。
部室の扉の前で、私は大きく深呼吸をした。
心臓が、昨日とは違う意味でドキドキと音を立てている。
意を決して扉を開けると、静かな水音と共に、
いつものように窓際に立つ先輩の姿が目に入った。
お互い目があったもののすぐに言葉が出てこない。
「……や、やあ、ふく」
「……せ、先輩っ……あ、あの、昨日は……っ」
先に声をかけてくれたのは先輩だったけど、
その声はいつもより少しだけ硬い。
私も私で、緊張のあまり声が裏返ってしまった。
気まずい沈黙が、埃っぽい空気に重くのしかかる。
――何か、何か話さなきゃ。
そう思った私は、洗い立てのハンカチをぎゅっと握りしめ、
先輩の元へ駆け寄った。
「せ、先輩! これ、ありがとうございました!
ちゃんと洗って、アイロンもかけました!」
差し出されたハンカチを見て、先輩は少しだけ目を丸くする。
そして、ふっと息を漏らすように笑った。
「……あ、ありがとう。別にそこまでしなくてもよかったのに」
その、ほんの少しだけ和らいだ表情に、
私もようやく肩の力が抜けていく。
「さて、と。……感傷に浸るのは昨日までだ。やるぞ、ふく」
「はいっ!」
先輩が指さしたのは、私が立ち上げるはずの水槽だった。
「まずは水質検査も覚えないとな。
そのシートの、色が変わる部分を水に浸してみろ」
言われた通り、まだ空っぽのガラスの世界にシートを浸すと、
紙片は瞬く間に鮮烈なピンク色に変わっていく。
「わっ……ピンク色に変わりました! 綺麗な色ですね!」
背後から覗き込んだ先輩が、静かに頷いた。
「……アンモニア値、振り切ってるな」
「えっ……アンモニアってどうしてです? それってそんなにヤバことなんですか?」
「そうだな、入れたらフグが星になるかもな」
私は思わず目を丸くする。
「ええええええ!? 星になるって……死んじゃうってことですか!?」
私の狼狽ぶりに、先輩は「だから焦るなって」と、
呆れたように、でもどこか優しい声で言った。
「まだ1日目だ。ここからバクテリアが仕事をして、
水槽の神様のご機嫌が直るのを待つんだ」
「水槽の神様! はやくアベニーが飼える環境になりますようにっ!」
私の変なお願いに、海月先輩はふっと微笑んだ。
その不意に見せた柔らかな表情に、胸の奥が微かに熱を持つ。
水槽の危機を示す鮮やかなピンク色よりも、
すぐ隣にある先輩の横顔の方が、
よほど私の心を乱す――危険なシグナルだった。
【2日目】:甘くて危険なふぐの罠!?
その日の部室の扉を開けると、甘い香りがふわりと鼻孔をくすぐった。
見れば、先輩が水槽の横で、コンビニの袋から取り出したであろう
シュークリームを頬張っているではないか。
「せ、先輩!それはいったい……!?」
「ん?ああ、これか。新作が出たんだ。楽しみにしてたんだよ」
先輩はもぐもぐと口を動かしながら、気だるそうに答える。
その姿は、いつものクールな先輩とは少し違って、
なんだか可愛らしく見えてしまう。
「奇遇ですね、先輩! 実は今日、私もとっておきのスイートなウェポンを持ってきたんですよ!
じゃじゃーん!『ふぐのお汁粉』ですっ!」
私は得意げにカバンからピンク色の可愛らしいパッケージを取り出した。
その瞬間、シュークリームを咀嚼していた先輩の動きがピタリと止まった。
「……は? ふ、ふぐの……お汁粉って、そんなのあるんだ……」
先輩が、かつてないほど目を丸くして絶句している。
その反応が面白くて、私はさらに畳み掛けた。
「ふふふ、実はあるんですねー、これが!
甘くてとってもデリシャスなんですよ? 先輩も一口いかがです?」
「い、いいのか?……。そこまで言うなら、試してみようかな……」
先輩は若干引き気味ながらも、未知なるスイーツへの好奇心には抗えなかったようだ。
私は早速、給湯室でお湯を注ぎ、準備を始める。
「いいですか、先輩? このお汁粉の真髄はですね、
こうやってお湯を注いだ後、ふぐの形をした最中のお腹をですね……優しく、こう……ぐさっと!」
「ちょ、ヤバイって、潰すのかよ!?」
「はい! そうすると中から、とろ~りとした魅惑のあんこが出てくるんですよ!」
「……なんか、ちょっとエグいな、それ」
先輩は若干引きつった笑みを浮かべている。
しかし、一口食べると、その表情はすぐに驚きへと変わった。
「……ん! 美味しいです! このあんこの甘さと、ほんのり塩味が絶妙で!」
私が満面の笑みでそう言うと、先輩も恐る恐る一口。
「……まあ、悪くないな。意外といける」
そう言って、先輩も小さく笑った。
二人で並んで、世にも奇妙な「ふぐのお汁粉」を頬張る。
窓から差し込む西日が、私たちの影を長く伸ばしていた。
なんだか、秘密を共有した共犯者のような気分だった。
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