【アクア部のふく】第一部:水槽を置ける場所
たんすい
第1話:制服リボンとしましまのフグ
桜が頬を撫でる四月。
――高校生活が、ついに始まる。
新しい制服のリボンを結びながら、鏡の前で思わず笑ってしまった。
紺のブレザーに、真っ赤なリボン。
中学の頃からずっと憧れていた制服だ。
今朝、髪にも同じ色のリボンを結んだ。
それだけで、世界が少しだけ特別になった気がして、頬がゆるむ。
私の名前は、福原彩花(ふくはら・さいか)。
友達からは普通に「彩花」って呼ばれている。
まさか、部活の先輩に“ふく”なんて呼ばれる日が来るなんて。
あの頃の私は、一ミリも想像していなかった。
私はずっと探していた。
日常をキラキラさせるような、特別な“何か”を。
でも、運動部の汗と熱気はちょっと苦手。
文芸部の静けさは、絶対眠くなる未来しか見えない。
結局どこにも決め手がなくて、
放課後の廊下をあてもなく歩いていた、その時だった。
掲示板に貼られた一枚のポスターが目に入る。
その瞬間、廊下のざわめきがすっと遠のいた。
『アクアリウム部 新入部員募集中!』
文字の下には、透明な水の世界が広がっていた。
虹色の光をまとう熱帯魚。
風のように揺れる水草。
青が層になり、深い静けさを抱えている。
その中心で――
一匹の小さな魚が、まっすぐこちらを見つめていた。
赤い目。
黄色と黒の虎模様。
どこか獣めいた気配を帯びた、謎めいたフグ。
(ふぐ?)
他のどんな絵よりも、その一匹だけが鮮明だった。
静かに、でも確かに、私の心を掴んで離さない。
呼ばれている――そんな言葉が浮かぶ。
根拠はないのに、妙な確信があった。
この子はどんな水の国を泳いでいるんだろう。
熱帯の雨の匂いがする森の奥か、
地図の白い部分にひっそりと隠れた川か。
胸の奥で、眠っていた好奇心がふっと灯る。
ずっと忘れていたのに、「ここにいたよ」とでも言うように息を吹き返した。
赤い目の虎模様のフグ。
その存在は、私の日常という静かな水面に落ちた小石みたいで、
見えない波紋がじわりと広がっていく。
「ここなら、きっと私の探してる“何か”が見つかる」
ポスターの地図をたどり、
私は迷わず、部室の扉をノックした。
――カチャリ。
耳に届いたのは、水の跳ねる音と、
ポンプの控えめな低い響き。
古びた教室のはずなのに、そこだけ日常の喧騒から切り離されたみたいに静かで、
張りつめていた気持ちが、少しほどける。
そして――窓際。
夕陽が差し込む一番明るい場所に、その人はいた。
袖をまくった腕で水草を植え付ける姿。
淡い金色の髪が光を受けてふわりと揺れ、
左耳の赤いピアスが小さく光った。
(うわ、漫画のキャラみたい)
息をするのを忘れる。
埃っぽい教室には不釣り合いなほど、現実離れした存在。
でも――確かに、そこにいる。
それが逆に、不思議でたまらなかった。
ふと気づく。
先輩のいる窓際の一つの水槽だけが光に満ちていて、
壁際に並ぶほかの水槽は――
すべて空っぽで、分厚い埃と水垢にまみれていた。
まるで、水槽の墓場みたいだった。
先輩は、水草から手を離し、こちらを振り返った。
夕陽の中で、その姿だけがスポットライトを浴びているみたいに見えた。
「見ていく?」
思わず一歩すくんだけど、私は期待を込めて、勇気を振り絞る。
「――あ、はい! あの、ポスターを見て……入部したいと思いました!」
そして、私をここへ導いた“あの子”のことを、つい口にしてしまった。
「ポスターにいた、あの虎みたいなフグ……どうしてもあの子に会いたくて……!」
ピンセットの動きが、ぴたりと止まる。
先輩がゆっくりとこちらを見る。
穏やかな表情はそのままなのに、
その瞳だけが、一瞬だけ――何も映していないガラス玉のようだった。
「……あいつは、もう……いないんだ」
水槽から目を離さないまま、静かに落とされた言葉。
「えっ……」
声が喉でつかえる。
私が固まっていると、先輩はようやく目を合わせてくれた。
漫画みたいに整った顔。
だけどその瞳は、どこか深い場所で折れているように見えた。
「それに、ごめん。この部、もう廃部寸前なんだ」
そして、小さく息を吐くように続ける。
「一人しかいないから」
言葉の余韻が沈む中、先輩は小さく笑った。
けれどその笑みは、どこか痛々しかった。
「でも……俺、ここが好きなんだ。だから……なくしたくない」
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