#8 疑心暗鬼を生ず

いつもどこでハバナ葉巻を手に入れてるの? 

話が聞こえる。ママを落ち着かせているのね。

安心なさい、ドルスダイはお金を送るさ。思い出してごらん、この冬私が介入して大金を救ってあげたんだ。それにエルベスハイマーの裁判が始まる・・・そうだろう。

……声が聞こえる。テレパシー! 変なの。

フレートの今も見える。市立公園 で、女の子とクールサロン の近くを歩いてる。その子は水色のブラウスで、明るい色の靴、声が少しかすれてる。全部はっきり分かるの。ウィーンに戻ったらフレートに聞くわ、九月三日の夜七時半から八時の間、恋人と市立公園にいたのって。


 それで、これからどこに行くの? 私どうしちゃったの? 

もう真っ暗。なんて綺麗で静かなの。人影ひとつない。今はもう、みんなディナーの席に座ってる。

テレパシー? ううん、テレパシーってほどじゃない。〔ディナー前の〕タムタム がさっき聞こえたもの。エルゼはどこだ? ってパウルは思ってるでしょうね。オードブルの時にまだいなかったら、誰でも気にするわ。私を呼びに行かせるでしょうね。エルゼはどうした? いつもは時間通りだよな? 窓際の紳士二人も「今日はどこにいる? あの赤みがかった金髪の美少女」って考えてるわ。

それでフォン・ドルスダイ氏は不安になる。きっと臆病者。

安心してくださいフォン・ドルスダイ様、あなたには何も起こりませんよ。私はあなたをとても軽蔑しているのですから 。

私が望めば、明日の夜のあなたは死人よ。……決まってるわ、パウルに教えたら決闘を申し込むはずよ。フォン・ドルスダイ様、命を与えましょう。


 草原はどこまでも広くて、山々はなんとも真っ黒。星はないも同然。

いや、あった、三つ、四つ、……もうたくさんある。それから、後ろの森はとても静かね。森の入口のベンチに座っていると、とても気持ちいい。ホテルは遠くて、とても遠くて、それはもうメルヘンチックに輝いてる。

それで、中に座ってるのはどんなクズたちかしらね。ああいや、人間たちね、哀れな人間たち。みんなとても気の毒ね。侯爵夫人も気の毒、理由はないけど。

それからヴィナーヴァー夫人と、ツィッシの幼い娘の子守りの人も。ターブル・ドット の席にはいない。もうフリッツィと先に食べたのね。エルゼはいったいどうしたのってツィッシが聞いてる。何、部屋にもいないの? 

みんな私のことを心配してるのよ、絶対そう。私だけが心配してない。そう、私はここ、マルティーノ・ディ・カストロッツァにいて、森の入口のベンチに座っていて、空気はシャンパンみたいで、そしてどうやら、私は泣いてるみたい。

そう、どうして泣いてるの? 泣く理由なんてないのに。敏感になってるのね。抑えなきゃ。このままじゃだめ。

だけど泣くことは全然嫌じゃない。泣くと気持ちが落ち着くの。

入院してたフランス人のおばあさんのお見舞いに行ったときも泣いたわ。その後亡くなったのよ。それからおばあ様の葬式でも、ベルタがニュルンベルクに旅立った時も、アガーテの幼い娘が亡くなった時も、劇場で『椿姫』 を見ても泣いたわ。

私が死んだら誰が泣くのかしら? 

ああ、死ぬってなんて素敵なことなの。

私はサロン に安置されていて、ろうそくが燃えてる。長いろうそく。十二本の長いろうそく。下にはもう霊柩車が。門の外には人々が。いったい何歳で? まだ十九歳よ。本当にたった十九歳で? ……考えてもごらんなさい、彼女のパパは刑務所にいるのですよ。なぜ自殺を? フィルーへの未練かしら。他に何が思い浮かぶの? 子どもを産むはずでした。いやいや、彼女はチモーネ山から転落したのです。不慮の事故です。こんにちはドルスダイ様、あなたも小さなエルゼに最後の弔いを? 小さなエルゼってあの老婦人は言ってる。……なぜでしょうか? 当然私は最後の弔意を表さなければなりません。私が最初の恥辱を与えてしまったのですから。ああ、苦労した甲斐がありましたよ、ヴィナーヴァー夫人。私はこれほど美しい体を見たことがありませんでした。たった三千万 で済んだのです。ルーベンス〔の絵〕はその三倍はします。ハシシで服毒自殺したのです。素敵な幻覚を見たかっただけなのに、飲みすぎたので目覚めることはありませんでした。フォン・ドルスダイ氏はなぜ赤いモノクルをしているの? いったい誰に向かってハンカチで合図しているの? ママが階段を下りてきて、彼の手にキスをする。うげ。今二人はささやき合ってる。私には何も理解できない。だって遺体安置されてるから。おでこに巻いたスミレの花輪はパウルから。リボンは床まで垂れてる。誰もあえて部屋に入ろうとしない。だったら私は立ち上がって窓から外を見るの。なんて大きな青い湖! 黄色い帆を張った百隻の船……。波がきらめいてる。太陽がいっぱい。レガッタ 。男たちはみんなTシャツ を着てる。女たちは水着。下品ね。あいつらは私の裸を想像してる。なんて馬鹿なの。黒い喪服を着てるじゃない、だって死んだもの。証明してあげる。もう一度すぐ棺桶に横に。どこ? なくなってる。持ってかれたのね。横領よ。だからパパは刑務所にいるの。なのに三年間も無罪だった。陪審員はみんなフィアラに買収されてたのね。今からお墓まで歩いていくわ、だからママは葬式代を節約できるのよ。切り詰めないと。誰もついてこれないくらい速く。ああなんて速さなの。みんな道端に立ち止まってびっくりしてる。死んだ人をそんな風に見るなんて許されるのかしら! 目障りよ。それよりも野原を歩きたいの、忘れな草とスミレで青一色の。海軍将校が警備してる。おはようございます、殿方、門を開けてください、マタドール様 。私が分かりませんか? 私は死んだ者です・・・だから、私の手にキスしなくていいの・・・ 私のお墓はどこ? それも横領されたの? お墓なんかじゃなくてほっとしたわ。マントンの公園ね。埋められてなくてよかったわね、パパ。蛇を怖いと思ったことはないわ。足さえ噛まれなければね。ああ、ううぅ。


 いったい何? ここはどこ? 眠ってたの? 

そうだわ。眠ってたのね。夢を見てたのよ。足がすごく冷たい。右足が冷たい。どうして? ストッキング、足首のところが少しほつれてる。どうしてまだ森の中で座ってるの? ディナーの鐘はとっくに鳴ったはず。「ディナー」 ね。


 ああ神様、私はどこにいたの? こんなに遠くに。

どんな夢を見ていたの? とっくに死んでいたんじゃないかしら。それで何の心配事もなくて、頭を悩ませなくてよかったのよ。

三万、三万・・・まだないわね。まずは稼がなきゃ。それで、私は森の入口でひとり座ってる。ホテルの光がここまで。戻らなきゃ。戻らなきゃいけないなんて最悪。だけどもう時間がないの。フォン・ドルスダイ氏が決断を待っている。決断。決断! 嫌。嫌です、フォン・ドルスダイ様、要するに、嫌なの。あなたは冗談を言ったのね、フォン・ドルスダイ様、そうでしょう。そう、私はそう言うの。ああ、それは素晴らしい。あなたの冗談はあまり上品ではありませんでした、フォン・ドルスダイ様。ですが、許してあげましょう。明日の朝パパに電報を打ちます、フォン・ドルスダイ様。お金がフィアラ博士の手元にちゃんと届くって。最高。そう言うの。お金を送らなきゃだめ、それ以外彼がすることは何もないの。しなきゃだめ? 彼がしなきゃなの? なぜそうしなきゃなの? 

そうなったら、後でどうにかして復讐してくるわ。お金が届くのが遅れるように手配するでしょうね。それかお金を送ってから、私を手に入れたっていろんなところで話すわ。だけど、そもそもお金なんか送らないかもしれないじゃない。いえいえ、エルゼ嬢、私たちはそんな賭け なんてしていませんでしたよ。あなたのパパに好きなように電報を打ちなさい、私はお金を送りません。私がこんな小娘に騙されるなんて思わないでいただきたい、エルゼ嬢。この私、エペリエスの子爵が。


 気を付けて歩くのよ。道が真っ暗。不思議だけど、さっきより気分がよくなった。何も変わってないのに、気分がいいわ。いったいどんな夢を見たの? マタドール? どんなマタドール? 

思ったよりホテルまで遠いわね。みんなまだディナー中のはずよ。そっとテーブルに着いて、片頭痛だったって言って、後から食事を出してもらうの。最後にフォン・ドルスダイ氏が私のところに来て、あれは全部冗談だったんだって言うの。すみませんエルゼ嬢、悪い冗談を許してください、銀行にはもう電報を打ちましたから。

だけど彼はそんなこと言わないわよね。電報も打ってない。状況は何も変わってないの。待ってるわ。フォン・ドルスダイ氏は待ってる。嫌、会いたくない。会うなんてできない。もう誰にも会いたくない。もうホテルにも戻りたくない、もう家にも帰りたくない、もうウィーンにも行きたくない、誰にも会いたくない、パパにもママにも、ルディにもフレートにも、ベルタにもイレーネおば様にも。おば様が最高よ、なんでも分かってくれるわ。でももう何の関係もないの、誰とももう何の関係もないのよ。もし魔法が使えたら、世界の全然違うところにいるはずよ。地中海のどこかの素敵な船、でも一人じゃない。例えばパウルと。うん、想像しやすい。それか海沿いの別荘に住むの。海に続く大理石の階段の上に横たわって、彼は私をぎゅっと抱きしめて、唇を噛む。

アルベルトが二年前ピアノの前でやったみたいに。無礼な奴。嫌ね。一人がいいわ、海辺で大理石の階段の上に横たわって待つの。そしてついに一人が、それか何人かが来て、私が選ぶの。そして選ばれなかった人たちは、みんな絶望して海に身を投げてしまうのよ。それか次の日まで我慢するしかないわ。

ああなんて魅力的な暮らし。このうっとりするような肩とすらりと伸びた足は、何のためにあるの? それで、そもそもいったい何のために私はこの世にいるの? それで、事が起こってもそれはみんな にとって当然の報いなのよ。だってみんな、結局私のことをただ、ああしてこうして、自分で身を売るように育てたんだもの。演劇のことだって、みんな耳を貸さなかったわ。みんな笑ってた。そうやって去年、もうすぐ五十歳になるヴィロミッツァー支配人と結婚してたら、みんなにとって都合が良かったのでしょうね。説得してこなかっただけよ。パパはやっぱり恥を感じてた。でもママははっきり言ってきたのよね。


 このホテルはなんて巨大なのかしら、まるでライトアップされた大きな魔法のお城ね。なんでも巨大。山も。恐ろしいくらい。こんなに黒いのは初めて。

月はまだ出てないのね。月はイベントが始まるまで昇らない。フォン・ドルスダイ氏が奴隷を裸で踊らせる、草原の一大イベントまで。

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【訳注】


市立公園 Stadtpark: ウィーンにある有名な公園。

クールサロン Kursalon: 市立公園内にある歴史的な建物。コンサートホールやカフェなどがある。

タムタム Tamtam: ここではディナーの開始を告げる鐘の音を指す。

軽蔑 おそらくは、「あなたに何もしないのは、別に許したからでも恐れているからでもない。あまりにも軽蔑しきっているので、もはや手を下す価値さえない(あるいは、そんな相手にこれ以上関わりたくない)からだ」という侮蔑の感情が込められているだろう。

ターブル・ドット Table d'hôte: ホテルなどで、決まった時間に決まったメニューが出される食事。ここではその食卓を指す。

椿姫 Kameliendame: アレクサンドル・デュマ・フィスの小説、またはヴェルディのオペラ『ラ・トラヴィアータ』。椿姫(ヴィオレッタ)は、愛のために自己犠牲を払い、社会的な偏見の中で死んでいく高級娼婦。エルゼが自身の状況を、無意識のうちに椿姫の運命と重ね合わせている可能性もあるだろう。

サロン Salon: 自宅の応接間や客間、あるいはリビングルームのような、比較的広くて公式な性格を持つ部屋を指す。当時のブルジョワ階級の家では、遺体をサロンに安置し、弔問客を迎えるという習慣があった。

三千万 dreißig Millionen: 前の「dreißigtausend」(三万)との混乱か、あるいはエルゼの誇張・錯乱か。文脈的には三万のはず。

レガッタ Regatta: ボートレース。

Tシャツ Ruderleibchen: 具体的にはボート選手のビブスか。現在はほとんど使われない用語だが、Tシャツとして一般的に着用されるようになる以前は、競技ボート選手が着用する衣服だった。( https://de.wikipedia.org/wiki/T-Shirt )

マタドール Matador: 闘牛士。エルゼの夢や幻覚の中に繰り返し現れるフレーズ。闘牛士(マタドール)が何を象徴するのかは不明瞭だが、死、運命、あるいは男性的な力など、様々な解釈が可能。彼女の意識の混乱を象徴するモチーフ。

作中の「マタドール」が、例えばカルメン』のエスカミーリョを指している可能性はあるが、断定できる明確な記述は作中にはない。とはいえ著者が知らないわけもなく、『カルメン』のイメージを意識していた可能性は十分に考えられる。

闘牛士は、華やかさ、勇壮さ、危険と隣り合わせの存在、そしてしばしば情熱的な恋愛の対象として描かれ、『カルメン』のエスカミーリョはまさにその象徴である。

エルゼの内的独白において「マタドール」という言葉が、特に彼女の精神が不安定な時や、死を意識するような幻想の中で繰り返し現れるのは、この言葉が持つ非日常性、劇的なるもの、あるいは運命的な力といったイメージと結びついているのかもしれない。

また、エルゼは、自分の運命を誰かに(あるいは何かに)劇的に変えてほしい、あるいは自分の状況から救い出してほしいという願望を抱いているようにも見える。そのような時、「マタドール」という華々しく力強い存在は、彼女の深層心理の中で、一種の救済者、あるいは運命を司る者として現れたのかもしれない。

また、闘牛が死と隣り合わせの興行であるように、エルゼもまた「死」を意識しており、その極限状態での思考の中に「マタドール」という言葉が浮かぶのは、単なる偶然ではない可能性がある。

ただし、これらはあくまで解釈の範囲内での関連性である。

ディナー Dinner.

賭け 意味的には「約束」など。

みんなにとって当然の報い 直接的にはパパとママだが、広義には当時の社会通念・ブルジョワ階級の価値観も含まれるだろう。当時の良家の娘に期待されていた役割(良い結婚をして家を助ける等)や、女性の選択肢の少なさといった、社会全体の価値観に対する批判とも言える。

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