#4 籠鳥雲を恋う
あぁ、元々フレートは私向きじゃないのよ。フィルーじゃないもの!
だけどもしお金持ちなら、彼を選ぶでしょうね。そこにフィルーが現れて……そうやって不幸が完成するんだわ。
……あなたはフィルーになりたいのでしょう? フォン・ドルスダイ様。……遠くからなら、時々あなたもそう見える。遊び慣れた子爵 のように、ドン・ファン のように……バカみたいなモノクルと白いフランネルのスーツで。でもあなたはフィルーにはほど遠いわ。
……すべてそろったかしら? 「ディナー」の準備は。
……だけどもしドルスダイに会えなかったら、一時間どうしたらいいかしら? もし彼が不幸なヴィナーヴァー夫人と散歩していたら? はぁ彼女は全く不幸じゃないわ。三万グルデン必要じゃないもの。
それじゃ、私はロビーで座っているわ、堂々と肘掛け椅子に。『イラストレイテッド・ニュース』 や『ラ・ヴィ・パリジェンヌ』 を見て、脚を組むの。……膝下のほつれは見えないでしょ。
たぶんちょうど億万長者が到着するはずよ。……〔お目当ては〕あなた か、じゃなきゃ誰もいないわ。
……白いショールを手に。私によく似合うもの。それはもうさりげなく、素敵な肩にかけましょう。この素敵な肩は、誰のためにあるのかしら? 私は男性をとても幸せにできるわ。いい人がいればね。でも子どもは欲しくない。私は母性的じゃないの。マリー・ヴァイル は母性的ね。ママも母性的、イレーネおば様も母性的。私には高貴なおでこと美しい体つきがある。
……「もし私があなたを思い通りに描かせていただけるなら、エルゼ嬢。」……ええ、それはあなたに都合がいいでしょうね。名前ももう覚えてないわ。ティツィアーノ って名前じゃ全然なかったから、おこがましいこと。
……ちょうど手紙を受け取りました、フォン・ドルスダイ様。……もう少しパウダーを首筋と首に、ヴェルヴェーヌ をハンカチに一滴、戸棚を閉めて、窓をもう一度開けて、ああ、なんて素晴らしい! 泣けるくらい。
緊張するわ。はぁ、こんな状況で緊張しないわけない。ヴェロナールの箱はシャツのところ。新しいシャツも必要なの。またひと悶着ありそうね。 ああなんてこと。
不気味で巨大なチモーネ山、まるで私の上に落ちてきそう!
空にはまだ星一つない。空気はシャンパンのよう。そして草原の香り!
田舎で暮らすの。地主と結婚して子どもをつくるのよ。フローリエプ博士はたぶん、私が幸せになれた唯一の人だったかも。クニープ での最初の夜、そして芸術家たちの舞踏会での夜、二日続けてなんて美しかったのかしら。
なぜ彼は突然消えたの? ……少なくとも私の前から。パパのせい? たぶん。
雑踏 の中に降りていく前に、空に向かって挨拶を叫びたい。
でもその挨拶は誰に? 私はひとりぼっちなのよ。
誰も想像できないくらいに、恐ろしく孤独。
挨拶を、私の愛しい人。誰?
挨拶を、私の花婿! 誰?
挨拶を、私の友だち! 誰?
……フレート? ……でもそんな兆しはないわ。さて、窓は開けたまま。たとえ冷えてきても。明かりを消して。うん。
……そうだ手紙。念のために持っていかなきゃ。
本を枕元のテーブルの上に。今夜は絶対に『我等の心』 を読み進める。何があっても。
こんばんは、最も美しい鏡の中のお嬢さん。私をあなたの良き思い出にしてくださいね、さようなら・・・
なぜドアに鍵をかけるの? ここだと何も盗まれないわ。
ツィッシは夜もドアを開けっぱなしにしているのかしら? それとも彼がノックした時だけ鍵を開けるのかしら? 本当に確実?
でもそうよね。それから二人は一緒にベッドで横になる。不快だわ。私は夫とも、千人の愛人とも寝室を共にはしないわ。
……階段ホールには誰もいない! この時間はいつもそう。私の足音が響く。
もう三週間ここにいる。八月十二日にグムンデン を離れたの。グムンデンは退屈だった。パパは、ママと私を田舎へ行かせるお金をどこで手に入れたの? それにルディは四週間も旅行していた。どこに行ったのかは神のみぞ知る、ね。その間、手紙の二度目はなかった。みんなの生活〔の実態〕 を知ることはないのでしょうね。そうは言っても、もうママは宝石を持ってないのよね。
……どうしてフレートはグムンデンに二日しかいなかったの? きっと恋人もいるのよ! まぁ想像もつかないけれど。全然想像できない。もう八日も手紙がないわ。素敵な手紙を書く人なのに。
……あの小さなテーブルに座っているのは誰? いえ、ドルスダイじゃないわ。よかった。ディナーの前に彼に何かを言うなんてできないわ。
……どうしてポーターは私をそんなに不思議そうに見ているの? まさかママからの速達の手紙を読んだの? 〔そんなこと考えるなんて〕どうかしてるのは私ね。今度またチップを渡さなきゃ。
……そこの金髪女性はもうディナーのための服を着てる。どうしてそんなに太っていられるのよ!
……ホテルの外に出て少しぶらぶらしましょう。それとも音楽サロン? 誰か演奏していない? ベートーヴェンのソナタ! こんなところでベートーヴェンのソナタを弾くなんて!
私、ピアノの練習を怠ってるわ。ウィーンではまたまめに練習しようかしら。とにかく違う生活を始めるのよ。家族みんなそうしなきゃ。このままじゃだめ。パパと真剣に話すの……まだ時間があるのなら。時間があれば、ね。どうして今までしなかったの?
うちではなんでもふざけ半分で扱われていて、しかも誰もふざけたりはしていないの。みんな本当は、他人が怖いの。みんな、一人ぼっち。ママは一人ぼっちよ、だってあまり賢くないし、誰のことも何も知らないもの。私のこともルディのこともパパのことも。だけど彼女は気にしてないし、ルディも気にしてない。彼は確かにエレガントでいいやつだけど、二十一歳の時はもっと期待されてた。オランダに行けばためになるわ。でも私はどこに? 旅をして、好きなことをしたい。パパがアメリカに高飛びするなら、私もついていくわ。
私、もうすっかり混乱してるのね……肘掛けに腰かけて宙を見つめるなんて、ポーターに頭がおかしいと思われるわ。
タバコに火をつけましょう。シガレットケースはどこ? 上ね。いったいどこ? ヴェロナールは洗濯物のところにある。でもケースはどこに?
ほらツィッシとパウルが来る。そうね、彼女はついに「ディナー」のために着替えるに違いないわ。でなきゃ暗闇の中で遊び続けているところよ。
……私を見てはいない。彼は何を言っているのかしら? どうして彼女はあんなにバカ笑いしているの? ウィーンにいる彼女の夫に、匿名で手紙を書いたら面白いかも。私にそんなことできる? 絶対無理。バレる?
今、二人は私を見たわ。私はうなずく。彼女は私がこんなに綺麗に見えることに苛立ってる。どれだけ迷惑そうなの。
「あらエルゼ、もうディナーの準備ができているの?」
……彼女はどうして今は〔フランス語風に〕ディナーと言って〔英語風に〕ディナーと言わないの ? 一貫性もないわね。
「ご覧の通りですツィッシ夫人。」
「君は本当に魅力的だよエルゼ、言い寄りたくなる。」
「面倒はやめてパウル、代わりにタバコを一本ちょうだい。」
「それでも喜んで。」
「ありがとう。シングルスはどうなったの?」
「ツィッシ夫人に三回連続で打ち負かされた。」
「ぼーっとしてたからよ 。ところで知ってる? エルゼ。明日ギリシャの皇太子 がここに来るのよ。」
……ギリシャの皇太子なんてどうでもいいじゃない?
「そう、本当?」
あぁ神様……ドルスダイがヴィナーヴァー夫人と! 二人は挨拶して、そのまま行ってしまう。私はあまりにも丁寧に挨拶を返してしまった。そうね、いつもとは全然違う。ああ私はなんて人間なの。
「タバコの火が消えてるよ、エルゼ」
「じゃあもう一度火をちょうだい。ありがとう。」
「ショールとても素敵ね、エルゼ。黒のドレスによく似合ってるわ。そろそろ私も着替えないと。」
……行かないで、ドルスダイが不安なの。
「それに七時に美容師を頼んだの。彼女は優秀よ。冬はミラノなの。それじゃあね、エルゼ、パウル。」
「御手をお貸しください、奥様。」
「それでは、ツィッシ夫人。」
……行ってしまった。せめてパウルが残ってくれて良かった。
「ちょっと隣に座ってもいいかな? エルゼ。それとも夢見のお邪魔かな?」
「どうして夢なの? 現実の方かも 。」
実際これには何の意味もないわ。もう行ってほしい。そう、ドルスダイと話さなきゃ。
まだ不幸なヴィナーヴァー夫人と一緒にあっちにいる。つまらなそう。見ればわかるの、彼はこっちに来たがってる。
「邪魔されたくないって、そんな現実が何かあるのかい?」
何を言ってるの? 地獄に落ちればいい。どうして私はこんなにも媚びるように微笑んでいるの? 彼のことなんか全然想ってないのに。
ドルスダイがふとこっちを見てる。ここはどこ? 私はどこ?
「今日は何かあるのかい? エルゼ。」
「何かあるって?」
「君はミステリアスで、魔性で、魅惑的だ。」
「馬鹿なことを言わないでパウル。」
「君を見ているだけで狂ってしまいそうだ。」
いったいどうしたの? なんなのよ、その話し方。彼はハンサムよ。私のタバコの煙が彼の髪に絡みつく。だけど私は今、彼を必要としていない。
「君は僕を見過ごしているようだね。なぜだい? エルゼ。」
……私は何も答えない。今、彼は役に立てない。私はできる限りの不愉快な顔をする。今は会話はよして。
「君の思考は、全く別のところにあるね。」
「かもしれないわね。」
彼は私にとって空気。ドルスダイは、私が待っていることに気づいてる? 私は見ないけど、彼がこっちを見ているのはわかる。
「それじゃあね、エルゼ。」
助かった。私の手にキスしてる。普段はそんなことしない。
「それじゃ、パウル。」
私のどこからそんなとろけるような声が? 彼は去っていく。ペテン師め。たぶん今夜ツィッシとまだ約束があるんでしょうね。楽しんで。
ショールを肩に巻き、立ち上がって、ホテルの外へ。
もう肌寒いでしょうね。残念だけど私のマントは…… あぁ今朝ポーター室に掛けたわ。
ショール越しに、ドルスダイの視線を感じる。ヴィナーヴァー夫人は今、部屋へと上がっていく。なぜわかるかって? テレパシーよ。
「もし、ポーターさん……」
「お嬢様、マントをご希望ですか?」
「ええ、お願いします。」
「夜はもう寒いんです、お嬢様。急に寒くなるんです。」
「ありがとう。」
本当にホテル前に行くべき? もちろんよ。じゃなきゃ何? とにかくドアの方に。
次から次へと人が来る。金縁の鼻眼鏡の紳士。緑のベストを着た背の高い金髪の男性。みんな私のことを見る。このジュネーブの小さな娘は綺麗だ。いいえ、ローザンヌ出身です。実際にはそれほど寒くないわね。
「こんばんは、エルゼ嬢。」
……なんてこと、彼よ。パパのことは何も言わない。一言も。夕食がおわるまで。じゃなきゃ明日ウィーンに行くことに。個人的にフィアラ博士のところに行くの。なんですぐに思いつかなかったのかしら?
私は、後ろに誰が立っているのかわかってないふりをして、振り向く。
ーーーーーーーーーーーー
【訳注】
子爵 Vicomte: (フランス語)。
ドンファン Don Juan: (スペイン語)。伝説の女たらし。
イラストレイテッド・ニュース Illustrated News: 図版入りのニュース雑誌。イギリスのものが有名。
ラ・ヴィ・パリジェンヌ La Vie Parisienne: フランスの週刊誌。ファッションや社交界、軽い読み物などを掲載。
あなた Sie: ここではエルゼのこと。現実逃避的な一連の思考で、「どこかに都合よく私を助けてくれるような大金持ちが現れないかしら」という藁にもすがるような思考である。続けての文は、(もしそうだとしても、相手は)「あなた(Sie = エルゼ自身)か、さもなければ誰もいない(keine = 他のどの女性も当てはまらない)」となる。この内的独白においてはエルゼが自分自身を客観視して、自問するように「あなた」と言っているだろう。つまり「その億万長者が誰か女性を探している(あるいは支援しようとしている)としても、このホテルの中でその相手にふさわしいのは、この私(エルゼ)しかいないでしょう。私でなければ、他の誰も(彼の眼鏡に)かなうはずがない」というエルゼの強い自負(自分の美貌や魅力に対する自信)を表している。
彼女のプライドや自己評価の高さ(あるいは、そう信じたいという気持ち)が表れているが、同時に、自分の魅力を切り札として状況を打開できないかという計算高さも垣間見える。
ティツィアーノ Tizian: イタリア・ルネサンスの画家。
ヴェルヴェーヌ Verveine: クマツヅラ科のハーブ。香水の原料などになる。レモンバーベナ。
緊張するわ: ヴェロナールを意識し、シャツに目を移し、そこで「(そういえば)新しいシャツも要る」を思考が飛躍し、さらにかつての舞踏会用手袋を想起していると思われる。
表層的には(満たされない)物質的な欲求だが、この唐突な連想は極限状況下での意識の混乱や現実逃避的な側面を表しているのではなかろうか。
クニープ Kniep: 人名か場所の名前(カフェなど)か不明。
雑踏 Gesindel: 下々の者、ならず者、といった意味の蔑称。ここではホテルにいる俗物的な人々を指しているか。
『我等の心』 Notre Coeur: ギ・ド・モーパッサンの小説。
グムンデン Gmunden: オーストリアのザルツカンマーグート地方にある保養地。
生活〔の実態〕 Existenz: 自分の家族の矛盾に満ちた不安定で理解不能な生活様式(Existenz)に対して抱いている困惑と苛立ち、そして諦めの気持ちを表している。「どうしてうちはこうなんだろう? 全く訳が分からないし、これからもきっと理解できないだろう」という嘆きとも言える。
ディナー Diner / Dinner: ツィッシが以前は英語風の「Dinner」と言っていたのに、今度はフランス語風(あるいは当時のドイツ語での一般的な言い方)の「Diner」と言ったことに対するエルゼの皮肉。気取りや一貫性のなさを指摘している。
単なる言い訳なのかもしれないが、パウルがエルゼのことや他の何かを考えていた可能性も示唆し、登場人物たちの表面的な会話の裏にある心理的な駆け引きが暗示されているのかもしれない。
現実の方: パウルの軽薄なアプローチに対するエルゼの鋭い切り返しで、「ただぼんやり夢を見ている(空想にふけっている)わけではない。深刻な『現実』と向き合っている」という内心の叫びを皮肉とウィットで包んだ表現と解釈できる。
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