第十一章 無音の歌姫(サイレント・ソングストレス)との二重奏(デュエット)
観劇者の双眼鏡を懐に忍ばせてからというもの、あたしはアンティーク冴島という名の舞台を、そしてそこに蠢(うごめ)く人間模様を、より冷徹な目で観察するようになった。それは諦観とも、あるいは新たな愉悦ともつかない、奇妙な感覚だった。自分自身を含め、誰もが何かしらの仮面を被り、それぞれの役を演じている。ならば、あたしはその中で最高の役者(アクター)になるまでだ。
「メル君、少しばかり厄介な『新作』が入荷したんだがね」
そんなある日、冴島がいつものように書斎から顔を出し、手招きをした。彼の顔には、疲労の色がまだ残ってはいるものの、どこか悪戯(いたずら)っぽい輝きが戻りつつある。魂の欠片とやらを取り込んだ影響は、徐々に薄れてきているのだろうか。それとも、それすらも彼の演技なのか。あたしは一瞬、懐の双眼鏡に手を伸ばしかけたが、思いとどまった。今のあたしには、小細工なしでも彼の腹の底くらい、ある程度は見通せる。
店の奥、普段は布が掛けられている一角に、それはあった。古びた木製の譜面台。優美な曲線を描いているが、所々ニスが剥げ、脚の一本は僅かに歪んでいる。そして、その上には、くすんだ深紅のベルベットで装丁された楽譜集が置かれていた。表紙には、金糸で『無音の歌姫のエコー』と、古風な筆記体で刺繍されている。
「『無音の歌姫』…ね。また曰く付きの匂いがプンプンするじゃないの」
「ご名答。これは、百年ほど前に存在したとされる、ある女流音楽家の遺品だ。彼女は極度に内向的な性格で、生涯一度も公の場で自作を披露することなく、孤独のうちに亡くなったと伝えられている。その作品は、あまりにも独創的で、常軌を逸していたとも言われているがね」
冴島は、楽譜集のページをそっとめくった。そこには、手書きと思われる複雑怪奇な音符が、まるで黒い蟲(むし)のようにびっしりと並んでいる。一見しただけでは、それが音楽だとは到底思えない。
「この譜面台と楽譜が店に来てからというもの、夜な夜な奇妙な現象が起きていてね。誰もいないはずのこの場所から、すすり泣くような音や、何かを訴えかけるような微かな旋律が聞こえてくるんだ。他の品々も、心なしか落ち着かない様子でね」
「つまり、この『歌姫』とやらが、何かを訴えたいってわけね。それで、あたしにその『通訳』でもしろと?」
「君なら、彼女の『声』を聞き、その『歌』をこの世に響かせることができるのではないかと思ってね。もちろん、これは君への『依頼』だ。相応の『ギャラ』は用意させてもらうよ、我が劇場のプリマドンナ?」
冴島は、芝居がかった口調で言った。その瞳の奥には、期待と、ほんの少しの試すような色が浮かんでいる。彼は、観劇者の双眼鏡を経て変化したあたしが、この新たな「役」にどう挑むのか、観察しようとしているのだ。
面白い。あたしは、その挑戦、受けて立ってあげましょう。
「いいわ。その『無音の歌姫』、このあたしが華麗にプロデュースしてご覧にいれるわ。ただし、本当に厄介な代物だったら、特別手当も要求するから、覚悟しておきなさい」
あたしは譜面台と楽譜集を受け取り、屋根裏部屋へと持ち帰った。シャノワールは、興味深そうに楽譜の匂いを嗅いでいたが、すぐにぷいと顔を背け、あたしのベッドの隅で丸くなってしまった。どうやら、この楽譜から漂う「何か」は、彼にとってもあまり心地よいものではないらしい。
あたしはまず、楽譜をじっくりと読み解くことから始めた。それは、確かに音楽の常識から逸脱した、異様な構成をしていた。不協和音が多用され、リズムは複雑怪奇。だが、その奔放さの奥に、あたしは強烈な感情の奔流を感じ取った。それは、孤独、絶望、狂気、そして、ほんの僅かな、誰にも届かない愛の叫び。
「……あなた、よっぽど不器用な人だったのね」
あたしは、楽譜に向かって呟いた。この無音の歌姫は、言葉で感情を表現することが苦手で、その全てをこの歪んだ旋律に託すしかなかったのかもしれない。
数日間、あたしはこの楽譜と格闘した。ピアノもないこの部屋で、あたしは頭の中で音を組み立て、指で空を叩き、そして、ハミングでその旋律をなぞった。それは、あたかも憑依(ひょうい)する役者のように、無音の歌姫の魂を自らに降ろそうとする作業だった。
練習を始めると、屋根裏部屋の空気が変わった。ランプの灯りが不規則に揺らめき、壁の染みが人の顔のように見えたり、どこからともなく冷たい風が吹き込んできたりする。そして、あたしがハミングする旋律に重なるように、女性のすすり泣くような声や、甲高い笑い声が聞こえてくることもあった。
(……歓迎してくれているのかしら、それとも、邪魔しようとしているのかしらね)
あたしは、そんな超常現象にもはや動じることはなかった。むしろ、それすらも演出の一部として楽しむ余裕さえあった。
そして、数日が経った夜。あたしは、いよいよ本格的な「リハーサル」を試みることにした。深呼吸をし、譜面台の前に立つ。観客は、ベッドの上で訝しげにこちらを見つめるシャノワールと、そして、この部屋のどこかにいるであろう、無音の歌姫の魂だけ。
あたしは、歌い始めた。それは、言葉のない、ヴォカリーズのような歌だった。楽譜に忠実に、しかし、あたし自身の解釈を加えて。あたしの声は、屋根裏部屋の闇に吸い込まれ、そして、そこに新たな響きを生み出していく。
歌が進むにつれて、部屋の中の異様な気配が強まっていくのが分かった。空気が重くのしかかり、壁や床が軋む音を立てる。そして、あたしのすぐそばに、冷たい「何か」の気配を感じた。それは、紛れもなく無音の歌姫の魂だった。
彼女は、あたしの歌声に引き寄せられるように現れ、そして、あたしの身体を乗っ取ろうとしているかのようだった。頭の中に、彼女の絶望や狂気が直接流れ込んでくる。目の前に、彼女が見ていたであろう孤独な部屋の幻影がちらつく。
(……甘く見ないでくれるかしら)
あたしは、心の中で呟いた。
(あなたの歌は、確かに素晴らしいわ。でも、この舞台の主役は、あくまでこのあたし、天音メルなのよ!)
あたしは、彼女の魂の侵食に抗いながら、さらに声を張り上げた。それは、もはや単なる歌ではなかった。あたしの魂と、無音の歌姫の魂との、激しい主導権争い。二つの声がぶつかり合い、せめぎ合い、そして、新たなハーモニーを生み出そうとしていた。
彼女の悲しみ、怒り、絶望。それらを全て受け止めた上で、あたしはそれを「演技」として昇華させる。あたしは、無音の歌姫の代弁者であると同時に、彼女を意のままに操る演出家でもあった。
観劇者の双眼鏡が教えてくれた、あたし自身の欺瞞性。それすらも、今ではあたしの力の一部だ。あたしは、彼女の純粋な絶望に共感するフリをしながら、その感情を冷静に分析し、最も効果的な形で表現する。
これは、二重奏(デュエット)。だが、どちらか一方が相手に喰われるような、そんな生易しいものではない。これは、互いの全てを賭けた、魂のバトルロイヤル。
あたしは、無音の歌姫の気配を真正面から見据え、笑みを浮かべた。
「さあ、もっと聞かせて。あなたの絶望の歌を。そして、あたしがそれを、最高のエンターテイメントにしてあげるわ」
屋根裏部屋の闇の中で、二つの魂の歌声が、狂おしく絡み合いながら、夜空へと昇っていくようだった。この危険な二重奏の結末は、まだ誰にも分からない。
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