第七章 鏡面のソリロキー(独白)
霧の森、石の祭壇、そして目の前には禍々しいオーラを放つ「魂喰らいの鏡」。あたしはその巨大な鏡面と、その傍らに立つ皺くちゃの番人の老婆と対峙していた。空気は重く、あたしの心臓の音がやけに大きく聞こえる。シャノワールを失うかもしれないという恐怖と、この状況を演じきってやるという女優としての矜持が、あたしの中でせめぎ合っていた。
「さあ、娘よ。お前さんの覚悟、見せてもらおうかの」
老婆が、木の根のように枯れた指を鏡に向けた。
「この鏡は、真実を映し、そして魂を喰らう。嘘も、見栄も、虚勢も、全て見抜き、その奥にある本質…欲望、恐怖、渇望…それを啜り尽くす。並大抵の覚悟では、逆に飲み込まれるだけじゃ」
「ええ、分かっているわ」
あたしは、深呼吸を一つした。舞台に上がる前の、あの独特の緊張感。だが今は、観客はいない。いるのは、この得体の知れない鏡と、不気味な老婆だけ。いや、あるいは、この鏡こそが、究極の観客なのかもしれない。
「あたしの最も大切なもの…それを賭けて、この鏡の呪いを解く。それが、あたしの選んだ『役』よ」
「ふん、威勢のいいことじゃ。だが、どうやってこの鏡の呪いを解くというのかね? 力ずくで壊そうとしても無駄じゃ。この鏡は、物理的な存在ではないからのう」
「力ずくでなんて、そんな野暮なことするわけないでしょう?」
あたしは、唇の端を吊り上げてみせた。女優は、力ではなく、言葉と心で勝負するものよ。
「あたしは、あたしのやり方で、この鏡を『演じ』させるわ」
「鏡を…演じさせるじゃと?」
老婆が、怪訝な顔で眉をひそめた。
「そうよ。この鏡が真実を映し、魂を喰らうというのなら、あたしは、この鏡が映しきれないほどの『虚構』を、そして喰らいきれないほどの『魂』を、この場で演じてみせる。あたしという存在そのものを、この鏡に叩きつけてやるのよ」
あたしは、祭壇の中央、鏡の真正面へと進み出た。そして、あたかもそこに満員の観客がいるかのように、深く、優雅に一礼した。
「さあ、ご覧なさい。これよりお見せするのは、わたくし、天音メルの、畢生(ひっせい)の大舞台!」
あたしは、語り始めた。それは、あたし自身の物語。灰被り地区でのしがない暮らし、箱庭劇場での短い栄光と挫折、アンティーク冴島での奇妙な日々、そして、この鏡の世界に迷い込むまでの出来事。
だが、それは単なる事実の羅列ではなかった。あたしは、その一つ一つの出来事に、ありったけの感情を込めて語った。喜びを誇張し、悲しみを美化し、怒りを劇的に演出する。あたかも、それが壮大な叙事詩であるかのように。
「そう、わたくしは選ばれた存在! この煤けた街に咲いた、一輪の気高き薔薇! 幾多の困難も、嫉妬も、嘲笑も、全てわたくしの輝きを引き立てるためのスパイスに過ぎなかったのですわ!」
鏡の表面が、ざわめき始めた。あたしの言葉に呼応するように、様々な映像が映し出される。劇団の仲間たちの嘲笑う顔、裕福な令嬢を演じていた時の虚しい優越感、日雇いアルバイトの単調な作業風景……。それは、あたしの心の奥底に隠された、見たくない「真実」の断片なのだろう。
「ふん、小娘が。お前の虚飾は、この鏡の前では全て剥がれ落ちるぞ」
老婆が嘲るように言った。
「いいえ、違うわ!」
あたしは、鏡に映る醜い真実から目を逸らさず、叫んだ。
「これが、わたくしなの! 虚飾も、見栄も、嘘も、全て含めて、それが天音メルという存在! あなたに、このわたくしの魂の輝きが喰らい尽くせるというの!?」
あたしは、さらに言葉を続けた。それは、仮面の男から聞いた話、イザベラの無言の叫び、忘れられたオルゴールの切ない旋律。あたしがアンティーク冴島で出会った、様々な魂の物語。
「彼らもまた、生きていた! 喜び、悲しみ、愛し、憎み、そして、それぞれの『真実』を生きていた! あなたはその魂を喰らい、ここに閉じ込めたのかもしれない。でも、その輝きまで奪うことはできないはずよ!」
あたしの声は、森全体に響き渡った。それは、もはや演技ではなかった。あたしの魂からの叫びだった。
鏡の表面が、激しく揺らぎ始めた。映し出される映像は、あたしの過去や、他の魂たちの断片だけではなくなっていた。そこには、無数の顔、顔、顔……苦悶に歪む顔、憎悪に満ちた顔、絶望に沈む顔……。それは、この鏡がこれまでに喰らってきた、全ての魂たちの姿なのかもしれない。
『……やめろ……』
鏡の奥から、低い声が聞こえた。それは、仮面の男の声とも、老婆の声とも違う、もっと古く、深く、そして苦しみに満ちた声だった。
「やめないわ! あなたが、全ての魂を解放するまで!」
あたしは、最後の力を振り絞って叫んだ。それは、あたしの女優人生の全てを賭けた、渾身のソリロキーだった。
「聞きなさい、魂喰らいの鏡! あなたが映し出すのは、真実なんかじゃない! あなたは、ただ他者の魂を喰らうことでしか、自らの存在を確かめられない、空っぽの存在なのよ! でも、もう終わり! あなたの虚ろな世界は、あたしが、この天音メルが、打ち砕いてあげる!」
その瞬間。
鏡の表面に、大きな亀裂が入った。
ピシリ、という鋭い音と共に、亀裂は瞬く間に鏡全体へと広がっていく。そして、鏡の中から、眩いほどの光が溢れ出した。それは、これまで鏡に囚われていた魂たちが、一斉に解き放たれた光なのかもしれない。
「お、おお……! 馬鹿な……このわらわが……!」
老婆が、信じられないといった表情で鏡を見上げている。その姿は、みるみるうちに薄れていき、まるで霧のように掻き消えてしまった。
光が収まると、そこには静寂が戻っていた。魂喰らいの鏡は、粉々に砕け散り、その破片だけがキラキラと地面に散らばっている。
あたしは、その場にへなへなと座り込んだ。全身の力が抜け、呼吸もままならない。
(……やったの? あたしが……呪いを解いたの?)
達成感と、同時に襲ってくる途方もない疲労感。そして、心の奥底に突き刺さる、あの約束の言葉。
「最も大切なもの」
あたしは、恐る恐る、心の中で呼びかけた。
(……シャノワール……?)
返事はない。
まさか、本当に……?
絶望が、あたしの心を暗く覆い始めようとした、その時。
あたしの足元で、聞き慣れた鳴き声がした。
「にゃあ」
見ると、そこにはシャノワールが、いつものように飄々とした顔で座っていた。その琥珀色の瞳は、心配そうにあたしを見上げている。
「シャノワール……! よかった……!」
あたしは、シャノワールを力強く抱きしめた。その温もりと、確かな存在感が、あたしの心を安堵で満たしていく。
(どうして……? 代償は……?)
疑問が頭をよぎる。しかし、今はただ、シャノワールが無事だったことを喜びたかった。
ふと、砕け散った鏡の破片の一つに、何かが映っているのに気がついた。それは、白い仮面を外した、穏やかな表情の男の姿だった。彼は、あたしに向かって静かに頷くと、満足そうに微笑み、光の中に溶けるように消えていった。
仮面の男も、解放されたのだ。
そして、あたしたちがいた霧の森は、急速にその姿を変え始めていた。霧は晴れ、木々は消え、代わりに現れたのは……見慣れたアンティーク冴島の、埃っぽい店の光景だった。
あたしとシャノワールは、無事に元の場所へ戻ってきたのだ。
しかし、全てが解決したわけではなかった。砕け散った鏡の破片は、依然として不気味な輝きを放っている。そして、この店の主、冴島は、一体どこでこの一部始終を見ていたのだろうか。
あたしの本当の「舞台」は、まだ終わっていないのかもしれない。
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