第五章 錆びついたオルゴールと忘れられた歌
「仮面の告白」の台本は、灰被り地区の隅にある古書店で、埃を被った状態で発見された。表紙は色褪せ、ページは黄ばんでいて、今にも崩れ落ちそうだったけれど、そこに記された文字は、確かに生々しい熱量を放っていた。
あたしは屋根裏部屋に戻り、ランプの灯りを頼りに、貪るように台本を読み進めた。シャノワールは、あたしの足元で丸くなり、時折寝返りを打ちながらも、静かに付き合ってくれている。
物語は、ある孤独な貴族が、自らの醜い素顔を隠すために仮面をつけ、別人格を演じ続けるというものだった。彼は、仮面の下で様々な人間を観察し、彼らの欲望や偽善を嘲笑う。しかし、やがて彼は、自分が演じている仮面の人格と、本来の自分との境界線を見失い、狂気に陥っていく……。
「……なんだか、あたしみたいね」
思わず、そんな言葉が口をついて出た。様々な役を演じ、虚構の世界に生きるあたしと、この仮面の男は、どこか似ているのかもしれない。
台本の最後には、衝撃的な一文が記されていた。
『我、真実の鏡ニ、魂ヲ捧グ。永遠ノ呪縛ト共ニ、永遠ノ仮面ヲ得ン』
「……やっぱり、あの男、この台本の登場人物そのものだったってこと?」
だとすれば、彼は自ら望んで鏡に魂を囚われたことになる。永遠の仮面を得るために。それは、俳優として究極の没入を求めた結果なのだろうか。それとも、ただの狂気?
あたしは、台本を閉じた。仮面の男の「呪縛」を解くヒントは、この台本の中には見つからなかった。彼が言っていた「君自身の心の中に」という言葉が、重くのしかかってくる。
翌日、冴島に台本を読んだことを報告すると、彼は意味深な笑みを浮かべた。
「どうやら、君はまた一つ、厄介な『共演者』を見つけてしまったようだね」
「ええ、まったく。でも、だからこそ燃えるのよ。このアンティーク冴島という劇場は、退屈させてくれないわ」
あたしがそう言うと、冴島は店の奥から、小さな木箱を持ってきた。それは、古びたオルゴールだった。表面のニスは剥げ落ち、金属部分は錆びついている。
「これは、『忘れられた歌』のオルゴールと呼ばれている。かつて、ある名もない作曲家が、愛する人のために作ったものだそうだが……その歌は、誰にも知られることなく、このオルゴールの中に閉じ込められてしまった」
冴島は、そっとオルゴールの蓋を開けた。しかし、何も起こらない。ゼンマイを巻こうとしても、固く錆び付いていて動かない。
「このオルゴールは、もう何十年も音を奏でていない。持ち主は次々と変わり、誰もこの中にどんな曲が眠っているのか知らない。メル君、君の力で、この忘れられた歌を蘇らせてはくれないか?」
「……あたしに、音楽の才能はないわよ」
「才能の問題じゃない。大切なのは、このオルゴールに込められた『想い』を感じ取ることだ。君の魂で、この錆びついた歯車を動かしてほしい」
あたしは、その錆びついたオルゴールを受け取った。ずしりと重い。その重さは、忘れられた歌の哀しみだろうか、それとも、作曲家の無念だろうか。
屋根裏部屋に戻り、あたしはオルゴールを机の上に置いた。シャノワールが、興味深そうに近づいてきて、鼻先でつんつんと突いている。
「あなたにも聞こえる? このオルゴールの声が」
シャノワールは、にゃあと短く鳴いた。まるで、「もちろんさ」とでも言っているかのように。
あたしは、オルゴールにそっと手を触れた。冷たく、硬い感触。でも、その奥に、微かな温もりのようなものを感じる。それは、かつてこのオルゴールが奏でたであろう、愛の歌の残り香なのかもしれない。
あたしは、目を閉じて集中した。作曲家は、どんな想いでこの曲を作ったのだろう。愛する人に、何を伝えたかったのだろう。喜び? 悲しみ? それとも、言葉にならないほどの、切ない想い?
あたしの指が、自然とオルゴールのゼンマイに触れた。そして、ゆっくりと、力を込めていく。ギギギ……という、金属の軋む音が響く。まるで、長い眠りから覚めようとする巨人の呻き声のようだ。
すると、どうだろう。固く錆び付いていたはずのゼンマイが、少しずつ、しかし確実に回り始めたのだ。
そして、カチリ、という小さな音と共に、オルゴールから、か細く、しかし美しい旋律が流れ始めた。
それは、どこか懐かしく、切ないメロディーだった。言葉はないけれど、愛する人への想いが、痛いほど伝わってくる。喜びと悲しみ、希望と絶望が入り混じったような、複雑で、そして深い感情が込められた歌。
あたしは、その旋律に耳を澄ませながら、ふと、仮面の男のことを思い出していた。彼もまた、何かを伝えたいけれど伝えられず、仮面の下で苦しんでいたのではないだろうか。
オルゴールの歌が終わると、部屋には再び静寂が戻った。しかし、その静寂は、先ほどまでのものとはどこか違っていた。忘れられた歌が蘇ったことで、この部屋の空気が、ほんの少しだけ浄化されたような気がした。
「……やったわ、シャノワール」
あたしがそう言うと、シャノワールは満足そうに喉を鳴らした。
その時、ふと、机の上に置かれた「真実の鏡」に、白い影が映ったような気がした。慌てて振り返ると、そこにはやはり、あの仮面の男が立っていた。
『……素晴らしい歌だった』
仮面の男が、静かに言った。その声には、いつものような嘲りや威圧感はなく、どこか穏やかな響きがあった。
『あの歌は、私がかつて愛した女性が、よく口ずさんでいた歌だ。彼女は、名もない歌手だったが、その歌声は、どんな有名な歌姫よりも美しかった……』
「……あなたが、愛した人?」
『ああ。だが、私は彼女に、自分の本当の姿を見せることができなかった。仮面の下の醜い自分を、彼女に知られるのが怖かったのだ。そして、彼女は何も知らずに、私の元を去っていった……』
仮面の男の声は、微かに震えていた。それは、彼が初めて見せた、人間らしい感情の揺らぎだったのかもしれない。
『あのオルゴールは、彼女の形見のようなものだった。だが、いつしか私は、あの歌を聴くことさえ辛くなり、オルゴールを封印してしまったのだ……』
「……そうだったのね」
あたしは、仮面の男の悲しい過去に、少しだけ同情を覚えていた。彼もまた、あたしと同じように、虚構の世界でしか生きられない、哀れな道化なのかもしれない。
『メル君……君の歌声は、あのオルゴールの錆びついた心を溶かした。そして、私の心の奥底に眠っていた、忘れかけていた想いを呼び覚ましてくれた』
「あたしは、何も歌っていないわ。ただ、オルゴールの声を聞いただけよ」
『それでも、君でなければダメだったのだ。君の魂だけが、あの歌を蘇らせることができたのだから』
仮面の男は、そう言うと、ゆっくりと仮面に手をかけた。
『もう、この仮面は必要ないのかもしれない……』
そして、彼が仮面を外そうとした、その瞬間。
鏡の表面が激しく歪み、仮面の男の姿がぐにゃりと捻じ曲がった。そして、甲高い叫び声と共に、彼の姿は鏡の奥へと吸い込まれるように消えてしまった。
「……何が、起こったの!?」
あたしは、鏡に駆け寄った。しかし、そこにはいつものように、あたしの姿が映っているだけだった。
(まさか……鏡が、彼を再び取り込んだっていうの?)
あたしは、言いようのない不安に襲われた。あの仮面の男は、解放される寸前だったのではないか。それを、鏡自身が拒んだというのだろうか。
アンティーク冴島。この店に集まる品々は、単に魂を宿しているだけではないのかもしれない。中には、持ち主を操り、自らの意思で何かを企んでいるような、恐ろしい存在もいるのではないだろうか。
そして、あたしは、そんな危険な「舞台」の主役に、知らず知らずのうちに祭り上げられていたのかもしれない。
あたしの胸騒ぎは、ますます大きくなっていくのだった。
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