――見てたの?

岡村 史人(もさお)

――見てたの? 前編

初めて彼女を見かけたのは、深夜二時を回った頃だった。

当時はコロナ禍で、オンライン授業が増えたため、僕の昼夜は逆転し、すっかり引きこもりがちになっていた。

夜食を買いに扉を開けたところで、丁度彼女の通路を僕が塞いでしまったのだ。


「あっ、すみません」

反射的に謝罪をすると、彼女は軽く会釈をする。香水の香りがわずかに鼻先を掠めた。

彼女は何事もなかったように、僕を一瞥すると通り過ぎていった。


――一目見て綺麗な女性だと思った。

この時間帯に帰宅するということは、水商売関係の人だろうか?


着飾った服に身を包んだ彼女は、年の頃なら二十代半ば……いやもう少し上だろうか?

しかしそんな服に身を包みながらも、どこか落ち着いた雰囲気のある女性であった。


こんな古いアパートに、女性が住んでいたのか――。


鍵を掛けるフリをしながら、僕は彼女の後ろ姿を盗み見る。


僕が越してくる数年前にリノベーションして、見た目こそ体裁を保っているが、築40年近いこのアパートである。

都心からのアクセスが良いわけでもなく、居住性も決して高いとはいえない。


そんな場所に女性が住んでいることに、僕は違和感を覚えざるを得なかった。

何か事情があるのか、それとも住めば都ということなのか。


それでも、彼女の醸し出す印象には品があり、この安アパートという場所にそぐわないような気がしたのを、今でも覚えている。


うまく鍵が入らない振りをして、コツコツと彼女の刻む一定のリズムに耳を澄ます。

音が止まった先で目だけを向け、彼女が入っていった角の部屋を確かめる。


コンビニで麦酒と摘みを購入すると、早々に帰途につく。

パンデミックが起こってからは、消毒殺菌マスクの毎日だし、どこに感染源があるかもわからないので、コンビニで長居して時間を潰す習慣は自然と失ってしまった。

そうして201号室……僕の部屋の鍵を開けようとしたところで、ふと一番端の角部屋が気になった。


さっきまでそこに居た――それだけで、彼女の気配がまだ残っているような気がした。

鍵をポケットにしまいなおすと、無意識に足音を潜めて角部屋まで歩いていく。


――206号室


ぼんやりとガラス窓越しに照らされる赤色灯の光で見えた部屋番号を僕は指でなぞった。

彼女の香水の残り香が漂っていた。



***


久しぶりの来客に備えて、昼夜逆転生活で荒れた部屋を慌てて片付ける。

ゴミ袋にあらかたのゴミを入れて押し入れに押し込んでから、素早く掃除機をかける。

仕上げに窓を開けて換気をすると、久しぶりに取り込んだ外気は冷たくも心地よかった。


タイミングよくチャイムが鳴ったので扉を開けると、マスクをつけた作業服の男が僕の部屋に入って来た。

「失礼しまーす」


オンライン講義が増え、スマホのテザリングでは限界を迎えたため、やむなく回線工事を依頼した。


正直に言えばこの出費は痛いことこの上ない。


接客業のバイトを先日僕はクビになったばかりだった。

……もっともクビの原因は経営不振だけれど。


だが、来期からの就職活動は、オンラインでの対面面接がメインになるというから、今のうちに準備しておかなくてはならなかった。


よろしくお願いします、と一声かけて、僕は課題で出された論文を慣れないパソコンで打ち始めた。


業者は点検口を開けると、天井裏に入り、何やら作業を始めていた。

小一時間ほどで作業を終え、再びこちらへと降りてくる。


書類にサインを請われたので、署名をしていると、話好きなのか業者の若者が話しかけてきた。

「それにしても、見た目綺麗だったから新築だと思ってたんですが、結構このアパート古かったんですね」

「ええ、確か築40年位だったかな?……でも何でわかったんです?」

「このアパート、屋根裏で全部の部屋が繋がってるんです。最近の建物じゃ、まず見ない間取りで驚きました」

「へぇ!そうなんですね。だから冬は寒いのかな?」

適当に相槌を打ちながら書類を書き終えると、業者はそれを受け取って、そのまま帰って行った。


***



授業でのストレスは消えた。だが、他の問題がまたしても僕を襲った。


また、深夜二時。僕はコンビニに行くために扉を開ける。


彼女のヒールが、コツコツと階段を上がり始めるのを見計らいながら――。


扉の鍵を閉めたところで、ちょうど彼女が階段を上りきった。

どうも、と僕が軽く会釈を返すと、彼女もまた同様に返した。


仕事終わりだというのに、肩口まで切り揃えられた髪の毛が俯いた瞬間に美しく揃い、静かに揺れる。愛想笑いをするでもなく、愁いを帯びた表情のまま彼女は僕の横を通り過ぎる。

――いつもと同じ、残り香を残して。


僕はそのまま、ゆっくりと階段の方へ向かうふりをしながら、彼女に気づかれない様にその姿を目で追った。アパートの外灯に照らされて、ちらりと見えるうなじが美しい程白かった。


……彼女は知る由もないだろう。

たったそれだけの事が、僕にとって一日を終わらせるための神聖な儀式のようなものだということに。


階段を下りきってから、僕は気づく。

息を止めていたことに。


――彼女の香りが、僕の中に在る。


その名残を惜しむように香りの余韻ごと、僕はゆっくりと口から息を吐いた。


***


仕送りが暫く少なくなるから、と母から連絡があった。


僕の実家は小さな工場を営んでいる。

しかしコロナの影響で物流が滞り、物資が高騰したため、やりくりが大変なのだという。


そして、母からは申し訳なさそうな声で、しばらくコロナが安定するまでは帰宅しないで欲しい。と、遠慮がちにお願いをされた。


当時は、不要不急の外出は避けるようにと明言されていた時期である。

また、若者が都会から感染源を持ってくるケースのニュースが多かったのもあったのだろう。

実家は人口の少ない田舎なので、都会から息子が帰京して白い目で見られることを嫌がったのだと思う。


……僕はそれに黙って応じることしか出来なかった。


バイト先を探してみたものの、中々良いものは見つからなかった。

それに加えて、来年は就職活動も控え、単位の取得も問題になってきていた。

決して遊び惚けていたわけではない。

ただ、慣れないオンライン授業での講義は、授業態度はあまり評価されず、レポートを重視する講義が多くなったので、課題は山のように積まれていった。


誰かと話すこともなく、大学では煩わしいと感じていたあのノイズを思い出しながら、白い画面にただ文字を埋めていく作業。それが何よりも苦痛だった。


もともと友人も少なかった僕の孤立感は更に増していき、昼夜の逆転生活は加速していった。夜の方がレポートには集中できるのもあった。


だが本当は、僕があの女性とすれ違う時間を、その瞬間を、何よりも優先していたのが真実だと思う。


しかし、偶然を装いすれ違うことを繰り返して行くうちに、僕は次第に社会的なリスクも意識するようになっていった。

どれだけ寂寥感せきりょうかんが増そうとも、僕は彼女にとって同じアパートの”隣人”である。

女性が毎晩同じ男とすれ違えば、それが何を意味するかくらいは、僕にもわかっていた。


だから、僕は毎晩彼女の前に現れることはやめた。

あくまで偶然を装うために、週一回と、すれ違う日を定め、決して曜日を同じ時間帯にはしなかった。

今思えば恐ろしい程の執心である。


――毎日彼女を感じられればいいのに。

その頃になると、僕はそんなことばかりを考えていた。

そして次第に、夢と現の境目さえも曖昧になっていった……。


***



ある深夜の事だった。

書いていたレポートを締め切りギリギリに終えた僕は、教授にデータを送ろうとしていた。

しかし、送信ボタンを押して出てきたのは、僕には意味の分からないウィンドウメッセージで、データが送れた様子はない。


……締め切りまで、一時間を切っていた僕は大いに困惑し、焦った。

モデムやルーターを再起動したけれど、一向に治らない。

そこで僕は回線の不具合を確かめるために、テーブルの上に椅子を乗せ、先日業者が入っていった点検口へと手を伸ばした。


後になってみれば、配線など見たところで、素人の僕に何がわかるわけでもないのだが、その時はただ必死で我を忘れていた。


点検口を開け、天井裏をスマホのライトで照らすと、厚い埃に覆われた木造建ての屋台骨が狭苦しく張り巡らされていた。

さて、業者が工事した場所はどの箇所だろうか?

そう思って、ライトでぐるりと辺りを見回した時である。


そこで僕はおもわず、あっと声をあげそうになる。

いくつもの部屋をまたぐように、天井裏の空間が奥へ奥へと続いていたのである。


『このアパート、屋根裏で全部の部屋が繋がってるんですよ』


そういえば先日業者の男が言っていた言葉を思い出し、これの事かと納得した。


だが僕が驚いたのは、そこではない。

僕の部屋から一番奥の方にある、壁に面した換気扇の奥からポツンと灯が漏れていたのである。その光は僕を誘うように、静かに優しく灯っているように思えた。


一番奥の角部屋……そう、彼女の部屋だ。


あの光を見た瞬間、理屈じゃなく“ああ、彼女はそこに居る”と分かった。

今まですれ違うだけだった彼女の生活が、そこにあると僕は信じて疑わなかった。


あそこに行けば、彼女を深く感じることができるのじゃないか――


そう思うと、もう矢も楯もたまらなかった。

レポートのことなど、すでに頭の中から消え去っていた。

抗う事の出来ない衝動に身を任せるように、僕は思わず身を乗り出し、点検口の中に入ろうと、両手をかける。


しかし手にかけた瞬間、指に痛みが走りその痛みが僕を正気に戻した。

どうやら柱にトゲが出ていたらしく、指を刺してしまった様だ。


206号室までの十数メートル。


端から端まで、何の装備もなしに歩くには、かなりの距離がある。

吐息一つで白い埃がうような場所で、準備もなしに歩くのは無謀だと、僕の理性が働いた。


――用意をしてから彼女に逢いに行こう。時間なら、幾らでも作れるのだから。

……血がにじみ出た人差し指を舐めながら、僕はゆっくりと点検口から部屋に戻るのであった。

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