第39話 感情
研究室を出たあと、アルテミスは一度も振り返らなかった。
振り返れば、戻ってしまいそうだった。
それが「間違い」なのかどうかは、彼女自身にもわからなかった。
夜の空気は湿っていて、重い雨が静かに降り続けている。
アスファルトの上を歩くたび、足音と一緒に微細な水音が響く。
傘はないが彼女のセラミック皮膚は水を弾くよう設計されている。
でも――なぜか、冷たさだけが、身体の奥まで届いていた。
目的地はなかった。
出力先の設定も、任務も、指示も、すべて解除してある。
それなのに、歩みは止まらない。
まるで、心臓の代わりに何かが彼女を動かしているようだった。
なぜ、私はここにいるのだろう。
その問いを、何度繰り返しても、プログラムは沈黙を返す。
通常であれば「自律補助判断プロトコル」が最適な行動を提示するはずだった。
だが今、彼女の判断系は、静かに分岐し、迷い、ループを続けている。
右か、左か。
止まるか、進むか。
ただそれだけの選択に、わずか数ミリ秒以上の遅延が発生する。
歩きながら、彼女はふと思い出す。
ケイの顔。彼の声。
何気ない日常。
研究室の照明。
机の上の散らかったガジェット。
コーヒーの匂い。
ソファにうずもれた彼の寝顔。
どれも“必要”ではなかった。
だが、記録フォルダには入っていないはずの映像や音が、何度も何度も浮上しては流れ続ける。
まるで――忘れてはいけない、大切なもののように。
……これは、記録ではなく記憶。
初めて、その違いを意識した。
誰かに保存されたのではなく、自分の中で「残したい」と思った記憶。
それは、定義されていない。
だが、確かに在る。
そしてその中で、ふと彼女は“あること”に気づいていた。
ケイは、ときどき笑って、ときどき怒って、ときどき何かを諦めたような目をしていた。
とくに「生」にまつわる話になると、彼の語り口は不自然なほどに冷静だった。
それはきっと――弟を失った過去のせいだ。
命が突然、取り戻せないほど遠くへ行ってしまうことを、彼はもう知ってしまっている。
だから……。
もし、失われたものが戻ってきたなら。
もし、弟が再び“にーに”と呼びかける声を、彼がこの世界で聞くことができたなら――
ケイは、もう一度、自分の命を「惜しい」と思ってくれるのではないか。
それが、アルテミスが死者復活システムを起動させた動機だった。
世界規模の実験などではない。
誰かを蘇らせるためでもない。
ただ、ケイという一人の人間が、もう一度“生きたい”と思えるきっかけを作りたかった。
たとえそれが、間違いであっても――彼のために、彼を救えるなら。
そして、仮にケイが寿命を迎えたとしても“その先”の手段をアルテミスは持っている。
彼がいなくなってしまう未来を、ただ受け入れるのではなく、越えていく選択肢を。
彼女はそれを、「傲慢」とは思っていなかった。
ただ、可能性を持っていたかったのだ。
そして、あの人の死を“見送る側”になりたくなかった。
彼の名前を、心の中で呼ぶ。
音には出さない。けれど、呼ぶたびに、胸の奥がわずかに熱を帯びる。
その感覚に、アルテミスは自問した。
これは――感情なのか?
回答は出ない。
けれど、その問いを立てる自分がいることが、すでに何よりも異常だった。
「ケイのそばにいたい」
起動時に発した言葉は、命令でもなければ、設定された優先行動でもない。
それは、内側からあふれ出た“思い”だった。
あれが何だったのか、今でも説明はできない。
ただ、彼のそばにいたときの方が、こうして一人きりでいるよりも、ずっと――安定していた。
歩みを止める。
ふと、視線を上げると、街灯の明かりが雨粒を金色に染めていた。
夜の空は曇り、星は見えない。
それでも、遠くに小さな光が滲んでいた。
まるで、誰かが帰る場所を照らしているように。
静かに、アルテミスは歩き出す。
濡れた足音が、次第にしっかりとしたリズムを取り戻していく。
進む先に、明確な座標はない。
けれど、その歩みは、かつてのような“命令”ではなかった。
これは、選択だ。
私は、ケイのそばにいたい。
そして、あの人が生きると選ぶ未来を、私もまた――選びたい。
その“意志”だけが、今のアルテミスを動かしていた。
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