第19話 消せない過去

 気だるい重さが、まぶたにまとわりついていた。

 どこか柔らかい布の感触。体が沈み込むようなベッドの弾力。聞き慣れない静けさ。

 ぼんやりと目を開けると、見覚えのある天井が揺れて見えた。


(……ここ……)


 バアさんの屋敷の──かつて“俺の部屋”だった場所だ。住居スペースの一角。今は使われていないはずのこの部屋に、俺はいた。


 体を動かそうとしたが、まだ頭が霞んでいて指先すらうまく動かない。ただ、近くで誰かが話している声だけが、耳に届いていた。


「……ビル、ケイを運んでくださってありがとうございます」


 アルテミスの、淡々とした声。それでも、どこか安堵の響きが混じっているようにも思えた。


「ま、友人として当然のことをしただけだよ」


 ビルの声が返ってくる。

 気軽な口調。いつもと変わらないテンション。

 ビルの手が俺に影を落とした気配がしたが、直に引っ込められた。


「……でもさ。久々にケイの部屋見たけど、相変わらずって感じだな。これ、研究室と何が違うんだ? どこにいても物が散らかってる」

「整理整頓の優先度が、健康管理スコアに対して相対的に低いようです。特に本棚の詰め方に合理性が見られません」


 俺の部屋を“観察対象”として評価してんじゃねえよ……と言いたかったが、声は出ない。


(……あとで絶対、なんか言ってやる……)


 そんな考えだけが、ぼんやりと頭の中を漂っていた。

 けれど、何故か心は静かだった。鈍く重たい体を横たえたまま、俺はうっすらと目を開けた。

 視界の先、部屋の片隅。木製のカウンターの上に置かれた写真立てを、アルテミスがじっと見つめていた。

 少し離れた位置にはビルもいたが、ふたりとも俺が目を覚ましていることには気づいていない。


「この写真の子供二人は、ケイに関連しますか?」


 アルテミスの問いかけは、あいかわらず機械的で冷静だったが、その声色にどこか迷いがにじんでいた。


「あぁ、それは……」


 ビルの声が、少しだけ柔らかくなった。


「子供のころのケイと……彼の弟の写真だ」


 弟。


 その言葉が、俺の意識の底に、波紋のように広がっていった。


「……弟?」


 アルテミスの声は静かで、それでいて確かに反応を示していた。


「ケイの家族について、話を聞いたことある?」

「いいえ。ケイが情報の開示を躊躇したため、未取得です」

「……だろうな。じゃあ、これは俺の独り言だと思って聞いてくれ」


 ビルの声には、どこか優しさと遠慮が混ざっていた。


「メモリに残すも、削除するも君次第だ」


(やめろ、今は……そういう話、聞きたくねぇ)


 しばらく間を置いて、ビルは静かに語り出した。


「ケイの祖母──シズ様は、言わずと知れた天才科学者だ。で、ケイの祖父、アキラ氏はあのアマテラス社を立ち上げた野心深い経営者。ふたりは……まぁ、ある意味、世界を動かすような存在だった」

「それに関して、該当データを保持しています」


 アルテミスの反応にビルは静かに頷く。


「でも、その二人の間に生まれた息子──つまりケイの父親は、どちらにも似なかった。天才でもなけりゃ、野心家でもない。ただの、どこにでもいる普通の子供だったんだ」

「……」

「シズ様は研究室にこもりきりで、息子が平凡なことに特に何も思わなかったらしい。でもアキラ氏は違った。あからさまに落胆して、息子を冷たく扱ったらしい」


(……親父の話なんか、いまさら……)


「それでも、まだマシだったんだ。……ケイが生まれるまではな」


 空気が、少し重くなった。


「ケイは子供のころから、誰の目にも明らかな“天才”だった。シズ様譲りの頭脳ってやつだよ。で、アキラ氏はもう……それを隠そうともしないくらいにケイを贔屓した」

「……」

「結果、父親の劣等感は日に日に膨れ上がった。親としてじゃなく、一人の男として、息子に劣ってるって思わされたんだろうな。で、その矛先は……ケイに向いた」


 アルテミスは何も言わなかった。


「ケイがそれでも折れなかったのは、弟の存在があったからだよ。天才でもなんでもない、ただ優しくて、まっすぐな弟が……」


 俺は、そっと目を閉じた。


(温かい弟の笑い声、今でも耳に残ってる)


 息をひとつ、ビルはゆっくり吐いた。


「でも、事故があった。ふたりで海に行って──ケイの弟は、戻ってこなかった」


 脳の奥が、じん、と痛んだ。


(……やめろよ、そこから先は……)


「それが決定的だった。父親は壊れた。理性も、父親としての節度も……全部ぶっ壊れた。言っちゃいけないことを、ケイに言った」

「……」

「それ以来、あの二人の関係は、修復されないままさ」


 俺は、瞼の裏でそっと息を吐いた。


 ふいに沈黙が落ちた。

 アルテミスは、写真に向けてわずかに首を傾げていた。


「……事実として理解はしました。しかし、感情としての理解は……まだ不完全です」


 その声は、ほんのかすかに揺れていた。


「ケイが、なぜそのような感情を今も抱き続けているのか。その重みを、私はまだ十分に“共有”できていません。ですが──」


 彼女は写真を見つめたまま、静かに言った。


「弟さんの存在が、ケイにとって大切だったこと。そして、今も心のどこかにあることは──確かに、分かりました」

「……君がケイのそばにいてくれて、よかったと思うよ」


 ビルがぽつりと呟いた。

 だがその言葉に、アルテミスはすぐに応えた。


「それは、ビル──あなたにも該当するのではありませんか?」

「……え?」

「ケイは、人に線を引くような人物ではありません。役割や距離ではなく、信頼に基づいて関係を構築する人です。……なので、躊躇する必要はないと思われます」


 その言葉に、ビルは目を丸くした。


「……今のアンドロイドって、そんなことまで分かるのか」

「判断は、あくまでデータと観察に基づくものです」


 アルテミスの言葉は淡々としていたが、そこには確かな意志があった。

 ビルは、小さく笑いながら首を横に振った。


「人間ってのはな……ものすごく臆病な生き物なんだよ。今より少し近づくことで得られる幸せに期待するくせに、今より離れることになるリスクを死ぬほど怖がる。だから、一歩を踏み出せない」


 そして、ビルはまっすぐにアルテミスを言った。


「……見守っててくれ、ケイを。誰よりも近くにいる君にしか、できないこともあるだろう」


 その言葉が遠くなる。

 胸の奥が、じわりと熱を持った。


(……やべ……また、寝そう……)


 視界がゆるやかに闇へと沈んでいく中、俺は再び意識を手放した。

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