第八章『あなたを祝う日のために』
芽衣の誕生日は、四月の終わりだった。
少し汗ばむような陽気と、まだ春の匂いを残す風。
奈央はその日が近づくにつれ、心のどこかがそわそわと騒ぎはじめていた。
——何か、特別なことがしたい。
今の自分にできる最大限の“祝福”を、彼女に贈りたい。
それは、芽衣からお願いされた“季節を見届ける”約束とはまた別の、
奈央自身のための決意でもあった。
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その日、奈央は早朝からキッチンに立った。
メニューは、芽衣が好きだと言っていたものばかり。
クリームシチューに、バゲット、桜の塩漬けをあしらったサラダ。
そして最後に、いちごとバニラの二層になった手作りのムースケーキ。
「誕生日って、自分が生まれた日でしょ?」
「でもその日を、祝ってくれる人がいるだけで、意味が変わるんだよね」
芽衣が以前そんなことを言っていたのを、奈央は覚えていた。
リビングには、淡いピンクと白の小さな飾り付け。
プレゼントは、芽衣の好きな色で編んだひざ掛け。
そして、ひとことだけメッセージカードを添えた。
> あなたが生まれてきてくれて、ありがとう。
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「……なにこれ、うそでしょ」
芽衣は、目を丸くしていた。
その視線の先には、彩り豊かなテーブルと、ケーキのキャンドル。
そして、小さく「Happy Birthday」と綴られたガーランド。
奈央は照れたように言った。
「サプライズ、成功ですか?」
芽衣はしばらく何も言わず、ケーキを見つめていた。
そして、静かに椅子に座り、奈央の手をとった。
「……こんなの、泣くに決まってるじゃん」
「泣くためにやったんじゃないです」
「……じゃあ、好きにさせるため?」
奈央は、少しだけ笑った。
「それも、ちょっとだけ」
芽衣は目を伏せ、声を震わせながら言った。
「こんな幸せ、知らなかった……」
「もっと知ってください。これから、もっと」
ふたりは手をつないだまま、キャンドルの灯を見つめた。
それはまるで、短くて、でも確かに燃えている“命”のようで。
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芽衣が口にした最後の言葉は、ふたりだけのものだった。
「奈央、わたし、ちゃんと……」
それは「ありがとう」の前だったか、
「愛してる」の前だったかは、わからない。
でも奈央は、その続きを、手のぬくもりから受け取った。
“これから”がどんなに短くても、
“今ここ”にある想いは、誰にも消せない。
芽衣の誕生日。
それは、奈央の心に永遠に残る“始まり”の日となった。
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