第五章『秘密の散歩道』
「今日は……行けるかも」
芽衣がそう言ったのは、昼過ぎだった。
熱も下がり、顔色も少し戻っている。奈央は念のため脈を取り、首を傾げた。
「本当に無理してないですか?」
「してるよ。ちょっとくらいは。でも、窓からじゃなくて、ちゃんと外の空気が吸いたいの」
奈央は一瞬ためらったものの、黙って頷いた。
車椅子を押して、芽衣と一緒にゆっくり玄関を出る。
まだ肌寒い風が、ふたりの髪をなびかせた。
「うわ、風のにおい、こんなに違ったっけ」
「季節、ちゃんと進んでますから」
「へぇ、やるじゃん、春」
ふたりは家の裏手にある、小さな小道へと向かった。地元の人でもあまり通らない、畑と林に挟まれた抜け道。芽衣は「ここ、前から気になってたんだよね」と言った。
途中、小さな橋の上で足を止める。
川の音、鳥の声、風の匂い。
芽衣は目を閉じて、すべてを吸い込むように深呼吸した。
「奈央」
「はい」
「もし、もう歩けなくなっても、またここに来てくれる?」
奈央は頷いた。
「もちろんです。わたしが、押します」
「じゃあ……この道、ふたりだけの秘密にしよう」
「秘密ですか?」
「うん。なんか、ほら、特別って感じするじゃん。ふたりしか知らない場所って」
芽衣は笑いながら、奈央の方を見上げた。
それは、ただのお願いではなかった。
名前を呼び、手を握り、そして「場所を分け合う」。
そうやって芽衣は、すこしずつ奈央の中に、自分の輪郭を刻んでいこうとしているようだった。
「……わかりました。ここは、“ふたりの場所”です」
「やった。じゃあ、秘密の証拠に……」
芽衣はポケットから取り出した、何かの小さなチャームを、欄干にそっと結びつけた。
「……いいんですか、それ」
「なくなってもいいの。誰かが見つけて、ふふんって笑ってくれたら、それはそれでいい」
奈央はそのチャームを見つめながら思った。
この人の“生き方”は、いつも少し切なくて、だけど優しい。
---
帰り道、芽衣はぐっすり眠っていた。
奈央が押す車椅子の上で、頬に風を受けながら、安心したように。
この時間が、あとどれくらい続くかなんてわからない。
でも、今日だけは思った。
——いつか、この道をひとりで歩くことになっても。
そのとき自分は、ちゃんと笑って思い出せるだろう。
“秘密の場所で、名前を呼びあった春の日”を。
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