プロローグ
海のにおいがした。
瓦屋根の町並みをなぞるように、潮風がゆるやかに吹いていた。商店街はほとんどがシャッターを下ろし、通りを歩くのは地元の高齢者か、道に迷った観光客くらい。五月の陽はじんわりと暖かく、けれどどこか寂しさを残していた。
橘奈央は、診療所の窓からその景色をぼんやりと見下ろしていた。ペンを手に持ったまま、書類に手をつけるでもなく。視線の先には、町のはずれにぽつんと立つ白い一軒家。その家が、これから自分が何度も通う場所だという実感は、まだ湧いてこなかった。
「小牧芽衣さん。17歳。指定難病。本人は在宅療養を希望。性格、やや…強気?」
母が残したメモには、そんな風に書かれていた。まるで保護猫の譲渡書みたいだ、と奈央は心の中で苦笑する。
——わたしに、ちゃんと接することができるだろうか。
誰かの人生に、踏み込むのが怖い。
誰かの想いを、抱えるのが怖い。
でも、もう後戻りはできない。
潮風がまた、窓から吹き抜ける。かすかに、檸檬のようなにおいが混じっていた。奈央はそれを深く吸い込んで、そっと瞼を閉じた。
その香りの向こうに、まだ会ったことのない少女の声がするような気がした。
「ねえ、あんた、ちゃんと人間やってる?」
——そんな始まりだった。
ふたりの物語の、最初の風が吹いた日。
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