第28話 諦めなさい。

 葵坂先生が何を言っているのか、分からない。

 そもそも、なぜ今ここに葵坂先生がいるのかも分からない。

 この時間は、この特別な時間は、私とお姉ちゃんだけの時間のはずだ。


「どうして…」


 先生が、ここにいるんですか?と尋ねようとする。実際、口を開く。けれど言葉は出てこなかった。

 さっき手渡された、特別チケット。

 そこには、私の名前が書いてある。

 このチケットは、世界で一枚だけしかない。ということは、このチケットを持っているのは世界で1人だけのはずだ。

 お姉ちゃんだけのはずだ。

 私は、お姉ちゃんにしかチケットを渡していないのだから。


 ということは。

 頭の中がぐるぐるする。結論は分かっている。どうしてこうなったのかも分かっている。頭の中では分かっている。分かっていないのは、分かろうとしていないのは、私の心だった。


「結城さん」


 葵坂先生は、少し悲しそうな声をだした。可哀そうな人に向かって出す、憐れみを含んだ言葉だ。つまり私は、可哀そうな人、だというわけだ。


「結城先生は…あなたのお姉さんは」


 来ないわ。

 聞きたくない。

 耳をふさぐ。ふさいでも意味がない。もう聞いてしまったのだから。なら次は脳内から記憶を消そう。消えない。消えるわけがない。聞きたくない言葉を聞いてしまったのだから。聞きたくないからこそ、逆に深く、私の心の中に逆針で刺さって抜けなくなっている。


「結城先生は、あなたのことを想っているからこそ、来なかったのよ」


 葵坂先生は言葉を続けた。


「結城さんは幸せよ。こんなにも想われているんだもの。少し、妬けちゃうくらいだわ」


 私を慰めようとしているのか、それとも本音がこぼれてしまったのか、先生は私を慰めるような優しい言葉をかけてくる。うん。言葉は優しい。耳障りのいい言葉だ。

 けれど、本当は私のことを何とも思っていないからこそ、優しい言葉をかけることができるのだろう。なんの責任もないから、都合のいい言葉を並べることができるのだろう。

 悪意は綺麗な言葉でコーティングされているのだ。


 私は、先生を睨みつけた。私はうまくない。うまく気持ちを表現することは出来ない。百戦錬磨でも何でもない。ただの、お姉ちゃんのことが大好きな、どこかでいびつに曲がってしまった女子高生だ。

 だから、私はわたしができることを、私ができる範囲で、まっすぐやろう。


「お姉ちゃんは、どこにいるんです?」


 先生と話をしていても埒があきませんから。直接はっきり、お姉ちゃんの口から聞きたいから、と私は伝える。

 先生は笑顔だった。

 さっきと同じような笑顔だった。見た目は笑顔だった。ただ、中身がぬるりと書き換えられてしまったかのように、優しい口調はそのままで、今度は、今からは。


「あなたとお姉さんと私、大学時代、恋人だったのよ」


 ぬぷりと、ぬらりと、けたけたと、私にそう告げてくる。先生は笑っていた。目は笑っていない。これは先生の目じゃない。女の目だ。

 私の前にいるこの人は、担任の先生ではなく、一人の女だった。


 お姉ちゃんに焼き尽くされた女の人だった。


 誰が分からなくても、世界中で、私だけははっきりとわかる。

 私だって、お姉ちゃんに焼き尽くされているのだから。ううん。私の方がより深く、より早く、より徹底的に、脳みその奥の奥までお姉ちゃんに焼却されている。


 だてに、初恋なんてしていない。


 私は初恋を、ずっと今まで大事にとってきているんだから。


「そうだったんですね、先生」

「そうよ。告白してきたのは、お姉さんの方からよ」


 先生は24歳。私は16歳。8つも離れているのに、容赦なく私を挑発してくる。


「大学時代、ずっと一緒だったのよ。一緒に住んでいた時もあるわ。私の家に、私の部屋に。大学時代、私は一人暮らしだったのよ?そんなところに、恋人同士で住んでいた…この意味、結城さんにもわかるでしょう?」


 たくさんたくさん、抱かれたのよ、と、先生はいった。

 見えない黒い触手が足元から這い上がってきたような気がした。ずるり、ずるりと、言葉の触手が私の身体を這いずり回っている。ぬらりとした後を残している。


 ああ、そうか。

 この人も。

 ある意味、私と同じなんだ。


「先生」


 あえて、先生と呼ぶ。目の前にいるのは女で、私のお姉ちゃんの元恋人で、女で、私をなんとか食い止めようとしているけど、女で、たぶんお姉ちゃんに頼まれている、女で、悪ぶっているけど、悪そうにしているけど、本当は悪いのかもしれないけど、けど役者を演じ切れていない、女で。

 とどのつまり。

 ここにいるのは、女と女で。

 中身がむき出しになった女と女で。

 恋の深さも知らない。恋の駆け引きも知らない。無視されるのは知っている。拒絶されるのも知っている。

 全部知った上で、初恋は止まらなかったんだ。


「お姉ちゃんは、どこにいますか?」


 口を開く。尋ねる。詰問する。

 執事姿のまま、立ち上がる。椅子ががたんと揺れる。


「お姉ちゃんが、本気で私を拒絶するなら」


 いま、ここに来ているのは、先生じゃなくって、お姉ちゃん本人のはずだ。

 あのホテルの夜。私を見てもらった夜。

 お姉ちゃんと、触れた夜。


 私はお姉ちゃんの心の端っこを、たしかに見たんだ。触れたんだ。


「お姉ちゃんが、先生をここに寄越したということは」


 お姉ちゃんは、私を拒絶しきる、勇気がないんだ。

 私を見たら、揺らいでしまうんだ。

 

「先生は」


 それを、分かっていたんじゃないですか?

 お姉ちゃんの弱さを、見てしまったんじゃないですか?

 だから、お姉ちゃんの代わりに、ここに来たんじゃないですか?


「結城さん、あなたは間違っている」

「分かってます」

「ううん、分かっていない。分かってなんていない、あなたは何も、分かっていない」

「分かっていないってことを、分かってます」


 間違って、ひねくれて、ひんまがって、もうボロボロになって。

 ぐちゃぐちゃのぼろぼろで、光るものは何も残っていなくて。


「お姉ちゃんが、初恋なんです」


 お姉ちゃんを好きになってから、ずっと、この気持ちは変わっていないんです。もう私、お姉ちゃんを好きじゃなかった頃の自分なんて覚えていない。私の細胞は、もう全部入れ替わっているんです。


「初恋なんて、叶わないものよ」


(ごめん、綾奈)

(私は、あなたを)

(守れない)


「先生、お願いです」


 私は、先生の手をとった。お姉ちゃんの元恋人の手をとった。


「お姉ちゃんの居場所を、教えてください。私は、お姉ちゃんと話をしないといけないんです」


(わがまま)

(わがままな姉妹。本当、そっくり。嫌になる)

(嫌になる)

(嫌になる)

(姉妹して、何度も何度も繰り返し繰り返し、私を焼いてくる)


「私は、お姉ちゃんが好きです」

「女同士だし、血がつながっているし、いけないことだって分かってますけど」


 でも。


「この胸の気持ちが、暖かさが、間違っているなんて、どうしても思えないんです」


(間違っているわよ)

(あなたは間違っている)

(間違いをちゃんと正して導いてあげるのが、大人の役目)

(大人の責任)

(私は先生だから)

(この子をちゃんと、導いてあげないと)


「綾奈は」


(このままじゃこの子はダメになる)

(綾奈の願いを聞いたでしょう?)

(あの子が、どんな想いで、どれほどの想いで、この子をあきらめようとしていたか聞いたでしょう?)

(止めないと)

(今、この場で、止めないと)


「校内のどこかにいるわ」


 妥協する。どちらの味方にもならない。どちらの要望にも応えない。中途半端な、卑怯な態度。


「先生」

「綾奈がどこにいるか、私は知っている。けれどあなたには、教えてあげない」


 だから。


「自分で探しなさい」


 今日の夜。

 文化祭の終わり。

 花火が打ちあがる。

 その時間までは、綾奈は校内のどこかにいる。


「私だって、綾奈のことが、好きなのよ」


 だから、せめて、抵抗くらいはさせなさい。


「先生、有難う。それだけで、十分です」


 私は、葵坂先生に一礼をすると、個室から出ていった。










「…クレープ、残っているじゃない」


 一人残された個室の中で、葵坂栞は、残されたクレープをひとかじりすると、「せいぜい、頑張りなさい」と、一言つぶやいた。


 大学時代の最後の日。

 卒業式の後。

 私は、綾奈を追いかけなかった。


 あの子は、綾奈を追いかけていった。



 私にはできなかったことが、あの子にはできるのだろう。


「…特別なはずなのに、このクレープ、あんまり美味しくないわね」


 でもこの味は、忘れることは出来そうになかった。

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