青い残響

長谷川 優

音のない朝

カリ、カリ……。


爪がまた割れていることに気づいたのは、二本目の缶を並べていた時だった。

湘 健之は、指先にささくれた痛みを感じたが、無視した。というか、無視“しか”できなかった。誰にも言えないからではなく、言ってもどうにもならないと、ずっと前に知っていたからだ。


廃校になった中学校の講堂。かつては運動会の応援歌が響いていた場所に、今は金属とホコリの匂いが支配している。

天井にはひび。床は冷たくて、音が響かない。まるで空気まで終わりかけているような感覚。息を吸うのが、少しだけ億劫になる。


帳簿をつける手元が微かに震えた。気温のせいか、それとも別のものか。

「……今日、七箱。昨日と同じ。うん、大丈夫、間違ってない。たぶん」

言い聞かせるように呟くが、声に自信はなかった。


誰かの足音が近づく。


コンコン。

「えっと、すみません、これ……仕分け……って、こっち?」


少し軽い、でも曖昧さを含んだ声。

顔を上げると、茶色い髪の女が紙袋を両手に抱えて立っていた。佐久間 真弓。名前は、昨日の資料にあった。今日から配属された補助スタッフ。

湘は反射的に言葉を選んだが、脳内で考えた文章の“正しさ”が口に出る前に崩れた。


「あ、それは……いや、うーんと、それ、缶詰は左。違う、右……“から”数えて、三列目。あと、紙のは……あの、火に強いやつは別……に……ごめん、わかりにくいかも」


真弓はきょとんとし、それから小さく笑った。


「……なんか、真面目そー。説明ちょっと難しかったけど、怒ってるわけじゃないんだよね?」


湘はしばらく何も言えなかった。怒る、という言葉に、なんだか昔の記憶が引っかかった。


「……怒ってないよ。怒るの、下手だから」


小さな間があって、またカリ、と爪の音が響いた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る