第2話 加治木誠司

 無数の人間が行きかう深夜の新宿。


 多くが若者で、日本人だけでなくアジア系や、白人の姿も多い。目が眩みそうになるネオンが、道行く人々の顔を照らしていている。


 歩道に三々五々に固まって談笑する若者のそばを通り過ぎた。

 居酒屋に入る金もなく、安酒で日々の鬱憤を晴らす者たち。

 

 加治木誠司かじきせいじは、若者たちを一瞥してから、虚ろな目線を前方へと向けた。

 黒いシャツを着た、男の背中があった。身長は百八十は越えない、中肉中背で、これといった特徴のない男だった。

 

 男の行く先に、目線をやる。


 前方に見える一塊になったような人ごみが目に入って、加治木は静かに息を吐いた。

 ほとんど無意識と言っていいほど即座に、何事も起こらぬようにと平穏を祈る。


 どっ、と人ごみから声が湧く。煽り立てるような嘆声が聞こえたかと思うと、苛立った喚き声が夜の街に響いた。

 

「なんだ? コラ」


 呂律が怪しい声だった。相当な酩酊状態にあるらしいことは、すぐわかった。


 道行く歩行者は怒気を含んだ声に驚いて、視線が自然と人ごみに集まる。

 目に留めた状況を瞬時に把握したようで、みな一様に進行方向に向き直ると、逃げるようにして、足早に去っていく。


 黒いシャツの男も同じだった。驚いたように肩を上げて、前方の人ごみを迂回しようと、歩道を外れた。


 後ろ髪を引かれる思いを振り払って、加治木も黒シャツの後を追い、人ごみを回避しようとした。

 しかし、普段から信心薄弱な加治木の祈りは、今日とて神に届くことは無かった。


 目の前で人混みが割れたかと思うと、金髪の男が加治木の前に倒れこんできたのだ。咄嗟に、加治木は金髪男の身体を両手で支えた。


 嘲るような指笛、嘲弄する声が、ひと際大きく飛び交った。


 波紋が広がるようにして、歩行者たちが、人ごみを遠巻きに通り過ぎていった。すぐに警察が呼ばれるような気配はなかった。


 加治木は、前方を行く黒シャツの男に、瞬時に目をやった。

 だが、黒シャツの振り返る気配を感じて、すぐに視線を手元の金髪男に戻す。

 金髪男は口元から血を流しながら、何やら訳の分からないことを喚き散らし、腕の中でもがいた。


 想像しうる最悪の状況だった。よりによって注目を集めることになってしまった事態に、己の悲運を呪った。


「放せやぁ!」


 金髪男が、ようやくまともな言葉で喚いた。


 金髪男の視線の先には、ぴちぴちの半袖シャツを着たガタイのいい短髪が立っていた。顔を紅潮させ、にやにやと笑みを浮かべている。


 加治木は、左腕を金髪男の腹に回し、自分の身体に引きつけるようにして抑え込んだ。

 空いた右手を使って、ポケットの携帯電話を取り出すと、110をタップした。

 プツっと、回線がつながる音を確認し、応答を待たずに即座に捲し立てた。


「事件です。男性同士の喧嘩で、片方の男性が殴られました。場所は……」


 目線を上げる。劇場通り一番街、という看板が目に入り、見たままを告げた。


「おい」


 短髪の男が、肩を怒らせてこちらに向かってきた。

 取り巻きの男たちも、怯むどころか苛立った顔で身体を寄せてくる。


 加治木は、腕に抱えていた金髪の男を、今度は取り巻きたちの方に押しやった。

 金髪の敵なのか、味方なのか分からないが、取り巻きは面食らったように金髪男を受け止めた。


「急行願います」


 加治木が告げた途端に、目前に迫っていた短髪の腕が電話に伸びた。

 さっと身を引いて、腕をかわす。

 短髪は、空振った手に握りこぶしを作って、目を血走らせた。


 短髪の男に正対した加治木は、さっと短髪の男を睨みつけた。


「暴行の疑いで、逮捕……」


 言いかけた言葉は、短髪が繰り出した殴打によって遮られた。


 加治木は後ろに飛びのいたために、顔を狙った攻撃は空を切る。

 短髪は、満面朱を注いださまで、いきり立った。


 加治木は、はっとして、踵を返した。

 短髪に背を向けて駆け出すと、背後から怒声と共に、聞きなれたパトカーのサイレンが近づいてくるのが分かった。

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