第3章 1980年 親父からの電話と、遠い国のニュースショー
「グラッツィエ」と掠れた声で礼を言った、あの虚ろな目。イタリア人。
ドイツ帝国の「盟友」であり、第二次大戦の「戦勝国」の一員のはずの国民が、なんで帝都の片隅で、あんなみすぼらしい恰好で施しを?
俺はイタリアに行ったことがない。当然だ。このベルリンのあるブランデンブルク州から一歩外に出るにも、俺たち外国人、特に日本のような敵対国の人間には、特別な許可証が必要になる。ましてや、ベルリン条約機構内の他の国へ旅行するなんてのは、夢のまた夢だ。だから、俺は「生」のイタリアを知らない。教科書やニュースで語られる「ドイツの忠実なパートナー」としてのイタリアと、俺がこの目で見たイタリア人の姿との間にあるギャップが、どうにも気持ち悪かった。
まあ、考えたって仕方ねえか。俺はただの留学生で、この国の複雑な事情なんざ分かりっこない。そう無理やり自分に言い聞かせて、いつものように大学の講義をサボり、レコード屋を冷やかしたり、クラウスと安いビールを飲みながら哲学ごっこに興じたりして、時間だけを浪費していた。
そんなある日の夜、アパートの共同電話がけたたましく鳴った。俺宛ての国際電話なんて、月に一度の親父からの「生存確認」くらいのもんだ。受話器を取ると、案の定、あの厳格で、どこか感情の読めない親父の声が聞こえてきた。
「玄か。息災か?」
「ああ、まあな。こっちは相変わらず鉛色の空だよ」
俺は、わざとぶっきらぼうに答えた。
「そうか。…少し、話がある」
親父の声のトーンが、いつもより低い気がした。
「最近、こちらの大使館の雰囲気が、どうもおかしい。水面下で、何か大きな動きがあるような気配がする」
「大きな動き? 何だよそれ」
「分からん。だが、情報統制が、以前にも増して厳しくなっているのは確かだ。お前も、少し行動を慎め。特に、政治的な発言や、軽率な行動は絶対に慎むように。いいな?」
「はいはい、分かってるよ」
俺は、正直うんざりしながら答えた。いつもの心配性な親父の小言だ。俺がベルリンで何かしでかして、親父の輝かしいキャリアに傷をつけることを恐れているだけだろう。
「分かっていないから言っているんだ」
親父の声が、さらに低くなった。
「これは、ただの杞憂ではないかもしれん。…とにかく、目立つな。大学と下宿先以外には、あまり出歩かない方がいいかもしれんぞ。友人との付き合いも、少し考えろ」
「なんだよ、それ。まるで軟禁じゃねえか」
「…今は、そういう時期かもしれんということだ。いいな、玄。これは命令だと思え」
一方的にそう言うと、親父は電話を切った。受話器を置いた後も、ツー、ツー、という無機質な音が、やけに耳に残った。大使館の雰囲気がおかしい? 行動を慎め? まるで、戦時下みたいな言い草じゃねえか。親父のやつ、ちょっと神経質になりすぎなんじゃないのか。
だが、俺はテレビのニュースを見て、少しだけ親父の言葉の意味を考え直すことになった。トップニュースで報じられていたのは、イタリアの、あの派手好きで有名なベニーニ首相の電撃的な訪日だった。日本の首相と握手するベニーニの満面の笑みと、それを伝えるドイツ国営放送のアナウンサーの、妙に冷ややかで皮肉っぽい口調。
「イタリアのベニーニ首相は、昨日、東京を訪問し、両国の経済協力関係の強化について合意しました」
アナウンサーは、淡々と原稿を読み上げた。
「特に、両国は今後、アフリカ大陸における資源開発とインフラ整備において、緊密に連携していく方針を確認したとのことです。一部では、イタリアが長年のドイツへの経済的依存から脱却し、独自の外交路線を模索する動きとの見方もありますが、その実現性については疑問視する声も上がっています」
アフリカ開発ねえ。聞こえはいいが、どうにも胡散臭い。
イタリアと日本が、このタイミングで、わざわざそんな遠い大陸の開発で手を組む? しかも、ドイツのメディアは明らかにそれを「ドイツへの当てつけ」「分不相応な試み」とでも言いたげなニュアンスで報じている。
ベニーニ首相のインタビュー映像も流れた。彼は、いつものように大げさな身振り手振りでまくし立てていた。
「我々イタリアと、偉大なる友人である日本は、共に手を取り合い、世界の新たな発展に貢献していく! もはや、特定の超大国の顔色を窺う時代は終わったのだ! 我々は、対等なパートナーとして、アフリカの大地に希望の光をもたらすだろう!」
特定の超大国、ね。どう考えたってドイツのことだ。これは、ただの経済協力の話じゃねえな。明らかに、政治的なメッセージだ。ドイツに対する、イタリアなりの精一杯の反抗宣言、といったところか。
以前なら、俺はこういうニュースを「遠い世界の政治ショー」として、鼻で笑って見過ごしていただろう。
政治家なんて、どこの国でも似たようなもんだ、と。だが、あの裏通りで見たイタリア人の物乞いの姿と、親父からの妙に緊迫した電話の内容が、頭の片隅で引っかかっていた。
イタリアは、ドイツの「パートナー」のはずじゃなかったのか? なのに、なぜ首相自ら、こんな挑発的な言動を?そして、なぜ日本が、わざわざ火中の栗を拾うような真似をする? アフリカ開発なんて、取ってつけたような名目で。その裏には、もっと別の、どす黒い取引でもあるんじゃないのか?
俺は、柄にもなく、ニュースの続きを読むことにした。ドイツ政府報道官の、いかにも不快感を押し殺したようなコメント。
「イタリアはベルリン条約機構の重要な一員であり、その責任ある行動を期待する」
日本の外務省報道官の、のらりくらりとした、何を言っているのかさっぱり分からない声明。
「両国の伝統的な友好関係に基づき、国際社会の平和と繁栄に貢献していく所存」
どれもこれも、建前ばかりで、本音が見えない。だが、その行間からは、水面下での激しい駆け引きと、互いへの不信感が透けて見えるような気がした。
俺は、部屋の隅に立てかけてあった世界地図を広げてみた。日本、ドイツ、アメリカ。そして、イタリア、アフリカ…。点と点が、まだ線にはならない。だが、何かが動き出している。それだけは、確かなような気がした。
俺は、無性に旅に出たくなった。このベルリンから抜け出して、イタリアへ、フランスへ、そしてできることならアメリカへ。自分の目で見て、自分の耳で聞いて、この世界の本当の姿を確かめたい。だが、それは叶わぬ夢だ。俺は、このブランデンブルク州という名の檻の中にいる。親父のコネで手に入れた、かりそめの自由の中で、ただ外の世界を想像することしかできない。
それでも、少しだけ、世界を見る目が変わったような気がした。今まで「どうでもいい」と思っていたニュースの裏側を、少しだけ真剣に考えるようになった。親父の警告も、単なる心配性ではなく、リアルな危険の兆候なのかもしれない、と。
俺は、読みかけだったカフカの『城』を手に取った。不条理で、出口の見えない迷宮のような世界。今のこの状況と、どこか似ているような気がした。城にたどり着けない測量士Kのように、俺もまた、真実にたどり着けないまま、この巨大なシステムの歯車に、ただただ翻弄されるだけなのだろうか。
ベルリンの鉛色の空は、今日も変わらずそこにあった。だが、その空の下で蠢き始めた何かが、俺の錆びついたコンパスを、ほんの少しだけ、予期せぬ方角へと揺さぶり始めていた。
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