六、船形連峰**山中

 宮城県西部に広がる山岳地帯、船形連邦。山形県とまたがって位置するこの連峰は、主峰の船形山をはじめ、蛇ヶ岳、三峰山、白髪山、後白髪山、北泉ヶ岳、泉ヶ岳などが連なっている。

 船形山は千二百メートルほどの低い標高ながら、広い山域を持ち地形や植物の変化に富んでいる。宮城・山形両県の県立自然公園に指定され、週末には多くの登山客が訪れる一方、南北十五キロメートル、東西二十キロメートルの広がりを持つことから、この連峰では遭難が多発していた。


 そんな山の連なりの奥深く、人の気配が感じられない森の中に、その西洋館はひっそりと建っていた。


 広い前庭、石材で作られた豪華な外観、左右対称の作りは前世紀の貴族の館を彷彿とさせるが、朽ちて久しい見た目はお化け屋敷の様相を呈している。壁はひび割れ、ところどころ崩れ落ちている。ある窓は割れ、またある窓はガラスの破片一つも残っていない。もはや過去の遺物となった館には、しかし一人の男が住んでいた。


 屋敷の奥で、アレクサンダーはふと目を開けた。大きな欠伸を一つ漏らす。いつものように、眼前にある取っ手に手をかけると天に向けて押した。がこ、と音が鳴る。さらに力を入れると隙間ができた。密閉されていた内部に新鮮な空気が入り込む。アレクサンダーは肺の空気を入れ替えるように何度か深呼吸をした。隙間に手を差し入れ、蓋を横にずらしていく。そのうち、ごとん、という大きな音を立ててアレクサンダーを閉じ込めていた棺の蓋は地面に落ちた。


「ふぁーあ、おはよう、紅」


 応える声はない。


 アレクサンダーは周囲を見まわし、辺りが完全な闇に包まれているのを確認すると棺から立ち上がった。マントの埃を軽く手で払う。大きく伸びをし、軽く体を動かした。体のあちこちからポキポキと骨が鳴っている。今度はどれくらい眠れたのだろうか。


 棺から抜け出したアレクサンダーは厚いカーテンで覆われた窓辺に寄った。カーテンを小さくずらし、窓の外をそっと伺う。今が夜であることを確認すると、勢いよくカーテンを開いた。部屋に月明かりが差し込む。


 アレクサンダーは振り返ると、窓辺に置かれた椅子に腰掛け、月が朧げに照らす室内を見た。細かい埃がキラキラと漂い、星のようだ。中央に置かれた棺が銀色の光を鈍く反射している。その上で吊り下げられているシャンデリアは使われなくなって久しい。夜目が効くので必要ない上に、手入れが面倒なのだ。最後に使ったのは、妙な男が尋ねてきたときだった。来客などそれ以来ないので、部屋は荒れていた。隅の天井には蜘蛛の巣が張り、壁紙は何ヶ所か剥がれている。


 ——何の柄だったか……。そうだ、何か植物の蔓だ。紅は植物が好きだから。


 チェストや暖炉の上には埃が積もり、こちらも蜘蛛が巣を作っていた。絨毯は以前コーヒーをこぼして捨てて以来、敷いていない。


 荒廃した部屋の中でアレクサンダーはため息をついた。


 いけない。これでは紅に怒られてしまう。


 アレクサンダーは部屋の一角に目をやった。


 そこには、一本の木と一脚のアームチェアがあった。アームチェアのファブリック生地には光沢があり、背もたれや脚には繊細な彫刻が彫られている。椅子を見守るように立っているのは月桂樹だ。床から天井までまっすぐに伸び、椅子の背後に静かに存在している。そんな木と椅子をアイビーが取り囲んでいる。埃まみれの荒れた部屋の中で、その一角だけ時が止まったように静謐を保っていた。


「紅。誰も来ないのだからいいだろう」


 静かな部屋でアレクサンダーの声だけが響いている。どこからか、それに応えるようにフクロウの「ホウ」という鳴き声がした。


「そう言うな。……わかった、私が悪かった。今日は掃除をするとしよう」


 アレクサンダーは億劫そうに腕を上げ、右手をくるりと回した。すると、荒れ放題だった部屋が、あっという間に埃一つない新築同様の部屋に変わる。蜘蛛の巣は一つ残らず取り除かれ、毛並みが整えられた絨毯が現れた。チェスト上の蝋燭には火が灯り、オレンジ色の光が部屋を満たした。


「これでいいだろう?」


 また、フクロウが鳴いた。


 満足そうに頷いたアレクサンダーは立ち上がると、窓の外を見た。


「そろそろ出なければならないか……。なぁに、心配するな。すぐ戻ってくる」


 アレクサンダーは月桂樹に近寄って行った。コツン、コツン、と革靴が石の床を叩く。アレクサンダーが前に立つと、椅子を覆っていたアイビーが自然に開いていく。


「あぁ、紅。いつまでも美しいままのお前で」


 闇夜の中、アレクサンダーは彼女に触れた。

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