第4話 月の記憶

 その夜、眠りは浅かった。


 夢のなかで私は、真っ赤な月の下に立っていた。

 目の前には、血のように赤く染まった水面。そして、そこに映るひとりの男の子。


 ――レイくん。


 けれどその姿は、今の彼とは違っていた。


 長い黒髪。大人びた表情。深く冷たい瞳――。


 私は夢の中で声をかけようとするが、喉から音が出ない。

 レイくんはゆっくりこちらを振り返り、静かに、微笑んだ。


 その唇が、言葉を紡いだ気がした。


 ――「また会えたね、真白」


 そう言ったように、見えた。


 その瞬間、私は目を覚ました。


***


「ふあ……」


 カーテンの隙間から朝日が差し込み、私の顔を撫でていく。

 時計は、登校ぎりぎりの時間を指していた。


「……寝坊だ」


 急いで制服に着替え、髪を結い、階下に降りる。

 だけど、いつもの場所――ソファの上に、彼の姿はなかった。


「レイくん……?」


 キッチンにも、風呂場にもいない。

 家のどこを探しても、姿が見えなかった。


 あの夢のせいで、いやな胸騒ぎがする。


 ――まさか、もう……いなくなった?


 そんな不安が頭をよぎったとき、裏口のドアが小さく開いた。


「おはよう、真白」


 そこにいたのは、いつもと変わらぬレイくんだった。

 安堵のあまり、私は思わず彼の胸に飛びついた。


「……っ、よかった……!」


「わっ、ちょっと、どうしたの……?」


「どこにもいないから……。消えたのかと思って……」


「ふふ、ごめんね。ちょっとだけ、外の空気を吸ってただけだよ」


 そう言って、レイくんはそっと私の頭を撫でてくれる。

 その優しさに、また胸が苦しくなる。


「レイくん……。ねえ、私、夢を見たの。赤い月の下で、昔の君に会ったような……」


「……昔の、僕?」


「うん。たぶん、今のレイくんより少し大人っぽくて、髪も長くて……。でも、すごく懐かしい感じがして」


 私の言葉に、レイくんの手が一瞬止まった。


「……その夢の中で、僕は何て言ってた?」


「“また会えたね、真白”って――そう、言ったような気がする」


 レイくんはしばらく黙っていた。

 何かを思い出すように、そっと目を閉じて。


 そして、静かに口を開いた。


「……ねえ、真白。もしかしたら、僕たちは――前にも、出会っていたのかもしれない」


「えっ?」


「いや、確かなことは言えないよ。でも……時々、夢に見るんだ。

 赤い月の夜に、誰かを抱きしめてる夢。

 その人の名前も、顔も、覚えていないけれど……すごく、大切だったって気持ちだけが、胸に残ってる」


 それはまるで、私の夢と重なっていた。


「ねえ……その人って、もしかして、私……?」


 聞いた瞬間、自分の鼓動が跳ね上がった。

 レイくんは驚いたように目を見開き、それから――ほんの少し、笑った。


「どうだろうね。でも、そうだったら……きっと、嬉しい」


 やさしく、やさしく、レイくんはそう言った。


 けれど、なぜだろう。

 その言葉の奥に、どこか“別れ”の気配を感じた。


 その日一日、学校での授業はまったく頭に入らなかった。


 レイくんが言っていた「前にも出会っていたかもしれない」という言葉が、頭から離れなかったのだ。

 それはただの夢かもしれない。でも、どこか現実のような確かさがあった。


 私とレイくんは、やっぱり偶然出会ったわけじゃないのかもしれない。

 もっと深く、長く、複雑な――何かに導かれて。


***


 放課後、家に帰ると、レイくんはいつも通りソファに寝転がっていた。

 静かな部屋に、窓から淡い夕日が差し込んでいる。


「ただいま」


「おかえり。お疲れさま、真白」


 レイくんは本を片手にこちらを見た。

 その笑顔にホッとする反面、どこか不安な気持ちが胸に広がる。


「ねえ、レイくん。君って……どのくらい生きてるの?」


「ん? どうして突然そんなこと聞くの?」


「夢のこと、気になってて……。もしかしたら前世で……とか、そういうのあるのかなって」


 レイくんは本を閉じ、しばらく黙ってから答えた。


「……ずっと昔から、生きてる。たぶん、君が生まれて、死んで、また生まれ変わるくらいの時間」


「やっぱり……」


「でも記憶は全部あるわけじゃない。僕の中にも、ぽっかりと空いた時間があって、何百年も空白のままの時もある」


「それって……辛くない?」


「……辛いよ。でも、それが僕という存在なんだ」


 レイくんの声は静かで、どこか遠くを見ているようだった。


 私はその隣に腰を下ろして、ぽつりと尋ねた。


「じゃあ……私は? 私は、レイくんの記憶のどこかにいた?」


「わからない。でも、君と初めて会ったとき……理由もなく涙が出たんだ。あれは――きっと、心が覚えていたんだと思う」


 その言葉に、私の胸がきゅうっと痛くなった。


「……もしもまた、離れなきゃいけない時が来たら、私はどうすればいい?」


 レイくんは優しく、私の手を取った。


「そのときは、僕のことを忘れて。……無理なら、せめて“悲しい記憶”じゃなく、“あたたかい思い出”として、心に残してくれたらいい」


「……そんなの、無理だよ……。忘れられるわけないじゃん……!」


 涙がこぼれる。止めたくても、止まらなかった。


 レイくんが、そっと私を抱きしめてくれる。


 細くて、冷たいけど、確かにそこにある腕。

 このぬくもりが、あと何日ここにあるのか、考えただけで息が詰まる。


「ごめんね、真白。僕は君に、幸せを与えられない」


「そんなことない……! レイくんがいてくれるだけで、私は――」


「でも、君は人間で、僕は……違うから」


 その言葉は、まるで未来を予言するかのようだった。


***


 その夜――。


 窓の外には、赤い月が昇っていた。


 まるで、夢の中で見たのと同じような色。


 私はベッドの中で目を見開き、ただその赤い光を見つめ続けた。

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