「あれ、里見は」


 そう監督が口にすると、球児たちは初めて首を左右に振った。

 しかしそこに里見の姿はない。

 なんとはなしに、ざわめきだした部員たちに気づいたのか、新キャプテンの阿部あべが、おずおずと手を挙げた。


「監督……あの、例の漫研じゃないですか?」

「ん? でも、いつもはこの時間にはきているだろう」


 そこまでいって、竹本は、はたと気づくように「あー……」と声を漏らし、こめかみをちょんちょんと叩いた。


「まぁ、先の大会は不甲斐ない結果に終わったが、お前らみんな、里見に頼りすぎていた部分があった。課題はチームの底上げだ。徹底していくぞ」

「はい!」


 部員たちはそろって、あからさまに声をだした。

 一丸であることの「姿勢」にだけは、余念がない。


 その様子に竹本は、満足げな表情を浮かべる。


「……それで、当の里見はどうするんですか」

「あいつは大丈夫だ。野球しかないようなやつだからな。何日かすれば、どうせ戻ってくるさ」




「もうやめた」

「あ、そうなの」


 意を決したつもりの表明は、存外に生返事で戻され、オレンジのつくえに跳ね返った。

 そりゃあ、あんな試合を見させられたあとだ。機嫌も興味も、冷めてしまって当然だろう。


 ──それでも。

 飛ばしたたんぽぽの種が、コンクリートの上に落ちるような気がしてしまう。

 俺は、なんとかして、一刻にも突風をおこさなければならなかった。


「なんていうかな……こう、張り合いがなくなったっていうか。求めてるものが違ったんだよなぁ。見放されたってよりは、むしろ見放してやった、って感じ?」


 言葉をたぐりよせ、脳をかき混ぜる。

 どうすれば届く。どうすれば、俺の声が突き刺さる。

 ガス欠しきった俺の言葉に、ミットまで届く動力などあるわけがないのだ。


 彼女は、呆れてしまったか。

 それとも、本当にどうでもよくなってしまったか。


 頼む、こっちを向いてくれ。


 求めるために、そのために堕ちてきたんだ。

 俺には、お前が、必要なんだ。


「──あ」


 駆け巡った思考は、気づけば一周していた。

 ふと、思う。

 だからどうした、と。


 俺は、こめかみを人差し指でちょんちょんと叩き、軽く首を振った。


「いや、違う。時間をかけたくないだけなんだ。俺は」

「……? どういうこと?」


「いまは、こうしてる時間のほうがいい。お前といる時間のほうが、なんか……いいんだよ」


 それだけでいい。

 琴加が学校にさえきて、隣にさえいてくれるなら、それで。


 言葉なんていらない。

 愚かしかろうと、浅ましかろうと、俺のエキスは琴加で、琴加のエキスはこの俺だ。


 求められたら、俺も応える。

 求められるたび、何度だって求め返す。


 それだけだ。本当に、それだけなんだ。


「いっとくけど、お前のせいじゃねぇよ? 自分の意思で、こうありたいと願ったんだ。呆れたかもしれねぇけど、俺は、お前と一緒にいたい。ひとりぼっちに、させたくない」


「う、うん……」


 この時間だけが、何者にも変え難く、美しい。

 そうだ。お前だけが、俺にとっての、血液なんだ──。




 ……ん?


 なんだ。どうした。

 なぜ、琴加はうつむいている。

 どうして、心なしか火照っている。


 その突然、彼女の歯切れが悪くなった「うん」に呼応してか、口の中は酸味と甘味で塗りたくられた。


 ちょっと待て。

 いま、俺、なんていった。


 ようやく目が覚めた。

 噛みつかれた鼻の先から、熱したいちごミルクが、頬にまで飛び出していたかもしれない。


 思わず、首をグインと真横に曲げて、乾いた眼球を逸らしてしまう。


「えーと……、あれっ? じゃあ、今日からは、ずっといてくれるってこと?」

「おぉ、おお。そ、そのつもりだぜっ! 早速、原稿とりかかるか!? つっても俺、絵ぇ描けねぇけどな!」


 逸らせ。できる限りに逸らすんだ。


 本当のことだが、こんな勘違いするようなニュアンスで、いいたかったんじゃなくて、まぁ、勘違いでもないんだけども。

 カッコつけたいわけでも、軽薄なわけでもなくて、そもそも琴加が相手だったからで。

 でも、それを言い訳にすると、まるでアレみたいになるし……だからなんでも、なんでもないんだ。


 だめだ、目を。今は目を見れない。

 見た瞬間に、俺のすべてをおかされる。

 防衛本能が、ここで待てといっている。


「あの……あのさ、里見くん」

「んん! な、なあに……?」


 世界が、静かに傾いた。

 彼女の輪郭に、チャコールグレーが差されていく。


 そして俺は、それを、判別しなかった。

 いや、とっくの昔からそんなもの、なくなっていたのかもしれない。


「嬉しい。私、嬉しいよ」



 ──────────────

 …………




 最後の審判が下される。

 自分でも、よくないことだと、わかっていた。

 これは「毒」だ。


 踏み込んだが最後、後戻りなど許されない。

 深く、底なしの、甘く濁った「毒」なのだ。


 たぶんそれは、こいつも、わかっているのだろう。

 わかったうえで、いっている。

 唇に、赤と白のカプセルを挟んだまま、俺へと、契を求めてくる。


 ちょっと頭を捻っては、あぁ、俺はなんてまぬけなんだろうと、今更にして思えてきた。

 でも、もう、無理だ。


「あの……里見くん? 手……」

「ごめん。でも、今は、こうさせてくれ。落ち着くから」

「う、うん。えへへ、でも、これじゃあ描けないよ」


 絡まる指と、指が、あたたかくて、そして、冷たい。


 柔軟剤の香り漂う、ふっかふかの羽毛があった。

 あれに、顔をうずめている。そんな感じ。


 彼女は、尊大な炎を背にして、逆光を浴びる。

 その光ごと、俺の身体を、静かに燃やすのだ。

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