Ⅳ
「あれ、里見は」
そう監督が口にすると、球児たちは初めて首を左右に振った。
しかしそこに里見の姿はない。
なんとはなしに、ざわめきだした部員たちに気づいたのか、新キャプテンの
「監督……あの、例の漫研じゃないですか?」
「ん? でも、いつもはこの時間にはきているだろう」
そこまでいって、竹本は、はたと気づくように「あー……」と声を漏らし、こめかみをちょんちょんと叩いた。
「まぁ、先の大会は不甲斐ない結果に終わったが、お前らみんな、里見に頼りすぎていた部分があった。課題はチームの底上げだ。徹底していくぞ」
「はい!」
部員たちはそろって、あからさまに声をだした。
一丸であることの「姿勢」にだけは、余念がない。
その様子に竹本は、満足げな表情を浮かべる。
「……それで、当の里見はどうするんですか」
「あいつは大丈夫だ。野球しかないようなやつだからな。何日かすれば、どうせ戻ってくるさ」
「もうやめた」
「あ、そうなの」
意を決したつもりの表明は、存外に生返事で戻され、オレンジのつくえに跳ね返った。
そりゃあ、あんな試合を見させられたあとだ。機嫌も興味も、冷めてしまって当然だろう。
──それでも。
飛ばしたたんぽぽの種が、コンクリートの上に落ちるような気がしてしまう。
俺は、なんとかして、一刻にも突風をおこさなければならなかった。
「なんていうかな……こう、張り合いがなくなったっていうか。求めてるものが違ったんだよなぁ。見放されたってよりは、むしろ見放してやった、って感じ?」
言葉をたぐりよせ、脳をかき混ぜる。
どうすれば届く。どうすれば、俺の声が突き刺さる。
ガス欠しきった俺の言葉に、ミットまで届く動力などあるわけがないのだ。
彼女は、呆れてしまったか。
それとも、本当にどうでもよくなってしまったか。
頼む、こっちを向いてくれ。
求めるために、そのために堕ちてきたんだ。
俺には、お前が、必要なんだ。
「──あ」
駆け巡った思考は、気づけば一周していた。
ふと、思う。
だからどうした、と。
俺は、こめかみを人差し指でちょんちょんと叩き、軽く首を振った。
「いや、違う。時間をかけたくないだけなんだ。俺は」
「……? どういうこと?」
「いまは、こうしてる時間のほうがいい。お前といる時間のほうが、なんか……いいんだよ」
それだけでいい。
琴加が学校にさえきて、隣にさえいてくれるなら、それで。
言葉なんていらない。
愚かしかろうと、浅ましかろうと、俺のエキスは琴加で、琴加のエキスはこの俺だ。
求められたら、俺も応える。
求められるたび、何度だって求め返す。
それだけだ。本当に、それだけなんだ。
「いっとくけど、お前のせいじゃねぇよ? 自分の意思で、こうありたいと願ったんだ。呆れたかもしれねぇけど、俺は、お前と一緒にいたい。ひとりぼっちに、させたくない」
「う、うん……」
この時間だけが、何者にも変え難く、美しい。
そうだ。お前だけが、俺にとっての、血液なんだ──。
……ん?
なんだ。どうした。
なぜ、琴加はうつむいている。
どうして、心なしか火照っている。
その突然、彼女の歯切れが悪くなった「うん」に呼応してか、口の中は酸味と甘味で塗りたくられた。
ちょっと待て。
いま、俺、なんていった。
ようやく目が覚めた。
噛みつかれた鼻の先から、熱したいちごミルクが、頬にまで飛び出していたかもしれない。
思わず、首をグインと真横に曲げて、乾いた眼球を逸らしてしまう。
「えーと……、あれっ? じゃあ、今日からは、ずっといてくれるってこと?」
「おぉ、おお。そ、そのつもりだぜっ! 早速、原稿とりかかるか!? つっても俺、絵ぇ描けねぇけどな!」
逸らせ。できる限りに逸らすんだ。
本当のことだが、こんな勘違いするようなニュアンスで、いいたかったんじゃなくて、まぁ、勘違いでもないんだけども。
カッコつけたいわけでも、軽薄なわけでもなくて、そもそも琴加が相手だったからで。
でも、それを言い訳にすると、まるでアレみたいになるし……だからなんでも、なんでもないんだ。
だめだ、目を。今は目を見れない。
見た瞬間に、俺のすべてをおかされる。
防衛本能が、ここで待てといっている。
「あの……あのさ、里見くん」
「んん! な、なあに……?」
世界が、静かに傾いた。
彼女の輪郭に、チャコールグレーが差されていく。
そして俺は、それを、判別しなかった。
いや、とっくの昔からそんなもの、なくなっていたのかもしれない。
「嬉しい。私、嬉しいよ」
──────────────
…………
最後の審判が下される。
自分でも、よくないことだと、わかっていた。
これは「毒」だ。
踏み込んだが最後、後戻りなど許されない。
深く、底なしの、甘く濁った「毒」なのだ。
たぶんそれは、こいつも、わかっているのだろう。
わかったうえで、いっている。
唇に、赤と白のカプセルを挟んだまま、俺へと、契を求めてくる。
ちょっと頭を捻っては、あぁ、俺はなんてまぬけなんだろうと、今更にして思えてきた。
でも、もう、無理だ。
「あの……里見くん? 手……」
「ごめん。でも、今は、こうさせてくれ。落ち着くから」
「う、うん。えへへ、でも、これじゃあ描けないよ」
絡まる指と、指が、あたたかくて、そして、冷たい。
柔軟剤の香り漂う、ふっかふかの羽毛があった。
あれに、顔をうずめている。そんな感じ。
彼女は、尊大な炎を背にして、逆光を浴びる。
その光ごと、俺の身体を、静かに燃やすのだ。
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