第1話 社畜建築家

 午後4時、大阪・梅田駅。


 現場確認を終え、ようやく帰路につくところだった。ビルの基礎工事はほぼ完了に近づいており、朝から立ちっぱなしだったせいで足がじんじんと痺れていた。


 新幹線に乗れば、すぐに東京へ戻れる時間帯。正直、このまま家に帰ってゆっくり休みたいと思っていた。

 今日の業務は終わり——のはずだった。


 曇り空を見上げながら、今日は少し早く寝られるかもしれないという希望を胸に、俺は課長に電話をかけた。


「課長、お疲れ様です。現場の確認は問題ありませんでした。今日はこのまま直帰させていただけますか?」


 返ってきたのは、あまりにも短い一言だった。


「一度、会社に戻って報告してからにしろ。」


 いつもと変わらない、あまりにも慣れ親しんだ言葉。


 決まりきった手順、マニュアル通りの反応。


 大阪から東京まで2時間以上かかる距離を、たった一言の報告のために戻れだなんて。


 効率も合理性も存在しない構造の中で、俺は今日もただ

「わかりました」と頭を下げることしかできなかった。



 新大阪駅は、俺のようなスーツ姿のビジネスマンと観光客でごった返していた。


 慣れた足取りで改札を抜け、新幹線ホームへ向かう。


 汗でシャツは身体に張りつき、腰に引っ掛けたヘルメットがカツカツと太ももに当たる。


「まもなく27番線に16時30分発、のぞみ100号・東京行きが到着いたします。黄色い点字ブロックの内側まで……」


 ホームに滑り込んできた新幹線に乗り込み、静かに指定席に腰を下ろした。


 窓の外の風景が後ろへと流れていくのをぼんやりと眺めながら、俺は鞄からパソコンを取り出す。


―カチッ。


 電源を入れると、今日撮った現場写真と点検メモが画面に映し出された。


 本当なら、東京までの二時間半くらいはのんびり過ごしたかった。

 だが——


「会社に戻ってからな」


 課長の言葉が脳裏にこびりついて離れない。


「はぁ……」


 小さくため息をついて、俺はキーボードを打ち始めた。


―カタカタ、カタカタ。


 どこかで子どもの泣き声や観光客の声が聞こえたが、気にしている余裕はなかった。


 車内テーブルの上に報告書のファイルを開き、現場での出来事を一つひとつ書き出していく。


「基礎杭の工法切替検討……鉄筋配筋の誤差8mm……掘削深度、再確認……」


―いつからだろう。


 こうして報告書を書くことが、生きるための習慣になってしまったのは。


 どうせ会社に着けば課長は

「今さら書いてるのか」と文句を言うに決まっている。


 それでも、少しでも進めておけば小言の一つくらい減るかもしれない。


 パソコンの画面に反射した自分の顔は、明らかに疲れていた。


 肩は徐々に重たくなり、全身が少しずつ沈み込んでいくようだった。


「……いっそ大阪に泊まってくればよかった、って誰か聞いてくれないかな」


 頭の中で呟きながら、ほどよく仕上がった報告書を保存し、俺は再び窓の外に目を向けた。気づけば夕焼けが街並みを赤く染めていた。もうすぐ陽も沈むだろう。


「まもなく、新横浜です。横浜線、相鉄新横浜線...」


 車内アナウンスが淡々と流れる。


 「もうここまで来たのか。」


 いつも通りの光景だが、今の俺にはどこか現実味のない風景に感じられた。


 パソコンをしまい、肩に鞄を背負った。瞼がどんどん重くなっていく。


——もう、いい加減、休ませてくれ。


 目を閉じそうになって、慌てて開いた。


 うっかり眠ってしまえば、東京駅まで乗り過ごすかもしれない。


 無駄足まで踏みたくはなかった。



 午後6時50分、品川駅に到着。


 まともに休めていなかったせいか、身体中がギシギシと音を立てているようだった。立ち上がると同時に、腰と肩に鈍い痛みが走る。


 急ぎ足で改札を抜け、会社のある方向へと歩き出した。


 日が完全に落ちた都心。


 地下通路には、会社帰りの人波が押し寄せていた。


 駅の前は、相変わらずの人混みだった。


 恋人と待ち合わせる人、スーツ姿でタクシーに並ぶ人——


 そして俺は、その流れに逆らいながら会社へ戻っていく。


 本社に入ると、まだいくつかの明かりが灯っていた。


 いつもの空気、年季の入った蛍光灯、机の上に乱雑に置かれた資料たち。もう慣れすぎて、何も感じなくなってしまった景色。


「おう、来たか。お疲れ」


 課長がぞんざいに声をかけてくる。


 その一言だけで、心の奥底から力が抜けた気がした。


「現場報告、今日中にまとめてくれ。明日の朝イチの会議に使うから。それと、前に頼んだ件もきちんと仕上げてな」


「……了解しました」


 目を閉じて、小さく返事をする。


 そして、黙って自分の席に腰を下ろした。


 さっき新幹線でほぼ仕上げておいた報告書を開き、最後の仕上げに取りかかる。


 数回見直して、ファイルをアップロードし、社内チャットにリンクを送った。

返事はなかった。


 ふと顔を上げると、いつの間にかオフィスには俺しかいなかった。蛍光灯の白い光だけが、がらんとした空間を照らしていた。


 窓の外は漆黒の夜。


 東京の夜景さえ、今の俺にはただの灰色のシルエットにしか見えなかった。


 モニターの上の時計は、午前0時34分を示している。


「……これは終わったな」


 電車はもうとっくに止まっている。


 今からタクシーで帰ったとしても、風呂に入る時間も、眠る時間もない。


 明日は朝から会議だ。今帰っても、意味はない。


「……俺は、何やってるんだろうな」


 誰もいないオフィスで、俺はそっと俯いた。


 目の前には、積まれた設計図、スケジュール表、メモで埋まったノート。


——これが、本当に俺が夢見た仕事だったのか?


 椅子の背もたれに深く身を預け、静かに目を閉じる。


 ほんの少しでいい。たった10分でもいいから、休みたい…


 そう思って意識を手放しかけた、その瞬間——


「バキッ」


 耳元で、何かが砕けるような音が鳴った。


 同時に、椅子の下が崩れ落ちるような異様な感覚。


「……え?」


 心臓が一瞬、止まったような錯覚。


 身体が宙に浮くような、落ちていくような感触に包まれる。


 脳裏が真っ白になった。


 目を見開く。



——そして、そこは“どこか”だった。

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