第2話
一陣の風が重たい蕾を揺らし、春の香りが運ばれてくる。
花に嵐。けれど、今年の桜前線は何を躊躇っているのだろう。花弁は慎ましやかに身を閉じたまま、冷たい風に吹き晒されている。
「はい、それじゃあ今日の授業はここまで。こんどの授業までに、最後のページまで読んで来こいよー。次、当てるからなー」
「えー? 最後までぇー?」
「そういう雨宮さんは川口先生が呼んでたぞ。部活始まる前に行けよ」
「え、ええぇー! ようちゃん、それもっと早く言ってよ! 今日鍵当番なのに!」
「ようちゃんじゃなくて、せ・ん・せ・い! 課題を溜めるから呼び出されるんだぞ」
生徒たちの笑い声。慌ただしい椅子のちぐはぐな合唱。眠たい授業の終わりと、楽しい放課後の始まりを告げるチャイムが鳴って、教室も廊下も一斉に動き出した生徒たちの濁流に呑込まれていく。
秋谷陽太は、まるで授業の間、ずっと、生徒たちは椅子という充電器に差し込まれていたのかもしれないと思った。電気のスイッチを入れられたように活き活きと動き出した彼らの姿に、苦笑いを浮かべて。
一番初め、慌ただしく廊下へと掛けだした雨宮という男子生徒を目で追いかけて、「転ぶなよ!」と後ろ姿に声を上げる。そして教卓に並べた教科書やファインダーをまとめて、クラスの名簿を開く。
今日の出席を確認する。欠席は二人。一人は午前中に早退した生徒だ。
秋谷は、その生徒とは別の生徒の名前の横に、「欠」と文字を書き入れた。
「せんせー、さっきの文、ちょっと聞きたいんですけど」
「おお、どこの文だ?」
その生徒が教室へと来るかも知れない薄い期待はあった。五時間目の途中で来る生徒なぞいるわけがないが、それでも、来たときに「欠」の文字が入っているのは、なんだか来ないことを決めつけたような、後味の悪い気がしていた。
「ありがとうございます、せんせー」
「おー、どういたしまして」
ふいに、秋谷は窓の外に広がる青に目を向けた。
国語の授業を受け持ってから3回目。一学期が始まってから2週間。秋谷がこの学校に赴任して、2週間と少し。
窓側の一番後ろの特等席。その席の主人である春川咲良という生徒と、秋谷はまだ顔を合わせた事がなかった。
秋谷陽太は、国語の授業を受け持つ教師だ。すでにいくつかの学校に赴任し、今年この学校に転任した彼は、運悪く入学式の日にギックリ腰を起こした老教師の後釜として、2年A組の副担任となった。
生徒をごちゃ混ぜにしたクラス替えによって、二年生からは新しいクラスになる。副担任を務め、国語の授業を受け持っているA組は、まるで一年の時から一緒にいたかのような雰囲気が初めからあった。まだ授業を受け持って数日だが、明るく元気な生徒達が多いと秋谷は感じ取っていた。
それでもやはり気になっていたのが、見たことのない、春川という生徒だった。
「おっ、秋谷先生、お疲れ様です」
職員室に入った秋谷へ声を掛けたのは。A組担任の川口だ。
「お疲れ様です、川口先生も。雨宮さん、来ました?」
「おお。チャイムなってすーぐに来たよ」
川口は嬉しそうに秋谷の肩をパシパシと叩くと、軽快に笑った。
「いやあ、生徒からの評判、良いって話じゃないですか! 雨宮さんも言ってましたよ、分かりやすいってね!」
「そ、そうですか。それは良かった」
数学教師の川口は、秋谷に比べればかなり教師歴が長く、高校を送り出した生徒の数も多いベテラン教師だ。川口は朗らかな顔に、皺を寄せるように笑った。
「何か困っていることとか、あります? 先生、まだこの学校に来て数日ですもんね」
「困っていること……」
秋谷は顎のあたりに手を当てて、首をひねった。
職員室の開け放たれた窓の外に、ゆらゆらと、青い壁画の空を背景にした薄桃色のかたまりが振り子のように揺れていた。秋谷は、窓辺の空の席を思い出した。
「そういえば、春川さんという生徒なんですが……」
「あー、春川さんね」川口は唇を引き結ぶと、困ったように眉毛を歪めた。「一年の終わりぐらいからかな。その時からあまり来ていなかったんですよ」
「やはり、その」
「ええ、不登校の生徒なんです。たまに学校には来るんですけどね。理由を聞いても話してくれなくて、いじめとか、そう言ったことはなかったんです。本人もそのことは否定していますし」
「一年の終わり……長いですね」
「ええ。初め、数日休んだ時があったのですけど、その時を境に。一年生の頃はとっても元気で………なんて言いますか、天真爛漫、という言葉が似合う子です。クラスの中心でしたよ」
運良く一年の単位は足りていたんです、と言った川口は、自分の受け持つ生徒を気に掛けている様子だった。
春川という生徒の担任だったという川口は、その時の様子を思い出すように、窓の外を見つめた。
「そうでしたか……」秋谷は自身が「欠」と印を付けた名前の欄を見つめた。
「ああっ、そうだ。今度の課外活動の時間なんですけどね、クラス全員で、丘の上の公園にいくって決めたみたいですよ」
「丘の上の、あっ、花雲公園ですか?」
「そうそう、そこです。お花見公園と皆は呼んでいるんです。今年は丁度満開になりそうですねえ」
「ですねえ」
秋谷は机の上に散らばった本を纏め、隣の席でお茶を飲む川口に相槌をうつ。今年は桜の開花は遅いから、きっと今から言っても綺麗な桜が見られるだろう。
「あ、そうだ。春川さんの事なんですけどね。もし、学校で見かける事があったら、声を掛けてやって欲しいんです」
「え、ええ。もちろんですよ」
「それと、ああ! 課外活動のお知らせを、クラスの子達が作ったみたいで。仕事が早いですよねえ。もし良ければ、もらってください」
どうぞ、と手渡されたのは、小さなリーフレットだった。薄桃色の紙に、A組お花見会のお知らせの文字と、桜の絵が描かれている。
「ははあ、こんなの作るんですね! 凄いなあ!」
「新しいクラスの親睦会を兼ねているみたいですよ。いやあ、最近の子ども達は活力がありますよ! 僕ももう歳ですから。相原先生みたく、いつ腰をやるか……」
「もう、なあに言ってるんですか」
「あ、さっきのお知らせ、もし春川さんに会ったら、渡してやってください。もちろん連絡はしてあるんですけど、忘れているかもしれないので!」
「えっ、春川さん、どんな子ですか?」
「ああ、長い黒髪の子で………」
「し、失礼します! あっ、川口先生、来ていただけますか! 部活のことで―――」
その時、川口の言葉を遮るように廊下の外から大きな声が響いた。秋谷の知らない生徒だった。着ている黒字のジャージに、赤の線が入っているから、三年生だ。
「あ、ちょっと部活のほう見てきますね。春川さんのこと、先生もよろしくお願いしますよ」
「えっ、ああ……はい!」
元気よく返事を返したものの、秋谷は手にした薄桃色の紙を一枚ずらして考えた。顔も知らない生徒に、どうやってお花見会のお知らせを渡せるだろうか。そもそも渡せない気持ちの方が大きくなっている。
ふわふわと宙を漂う桜のつぼみを目で追いながら、秋谷は頬杖をついた。はあ、と息を吐き出す。黒髪の長い髪の女の子。その姿を思い浮かべる。
果たして、秋谷はその生徒と、次の週に顔を合わせることとなる。
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