第35話 一生の誉れ


「一緒に……いたいんだ」


 結婚。

 婚姻。

 マリッジ。


 そのような類の言葉がぐるぐると巡り、思考は全く形にならなかった。


「…………」

「…………」

「…………」


 三人の沈黙。ミュスカがふとヴァインを見ると、両目を見開き唇を引き結んだ、恐ろしげな表情を浮かべていた。

 ノールは真っ赤な顔に真剣な表情を浮かべ、だがミュスカから視線を外すことなく見つめている。

 ミュスカは――


(結婚を……申し込まれた……のですか? 私が……?)


 人生で初めてのイベントにどのような表情を浮かべていいか分からず、茫然としていた。

 三者三様の沈黙を破ったのは、ノールだった。


「ミュスカ」

「ひゃっ、い!」

「……ええっと。……返事。欲しい。んだけど」


 そう求めることも、若き皇帝にとっては気恥ずかしいことであったのだろう。口調のぶっきらぼうさとは裏腹に声は少し小さい。だが視線は外さず、ミュスカに逃げることを許さない。

 こくりと喉を鳴らして、ゆっくりと息を吸い……ミュスカはようやく、思考をまとめた。


「失礼、とても……そう、とても驚いておりました。大変、光栄ですわ」

「ならっ……」

「光栄ですが、そのお申し出を……受けるわけには参りません」


 ミュスカは静かに、深く頭を下げる。そのまま首を切られても仕方ないつもりで、差し出した。


「こ、断る……のか」

「はい。申し訳ありません、ノール様。私は……」


 顔を上げる。

 いつもの曖昧な笑みはなく、ノールの必死に答えるだけの真剣さを持って見つめ返す。


「私は没落貴族の娘であり、近いうちに没落ですらないただの女になるでしょう。血筋も、立場も能力も、……年齢においても、旦那様に相応しいものではありません」

「相応しいなんて関係――」

「あるのです。貴方のお立場は、重要という言葉では表現できぬ――唯一のもの。相応しき伴侶をお迎えなさいませ」


 一言ごとに突き刺さる、胸の痛み。


(おかしい)


 胸が鋭く痛み、唇を動かす頬が軋む。


(正しいことを言っているのに)


 ノールの視線から逃げてはならないと見つめる視界が歪む。


(断られて辛いのは、彼なのに)


 ――どうしようもなく苦しい、その感情の名から、ミュスカは必死に思考を逸らし続ける。


「ノール様のお気持ち。そして美しい花束をいただいたこと、一生の誉れといたしますわ」

「…………絶対に、ダメか?」

「……はい。こればかりは」


 ダンスの誘いを断った時のような表現は思い浮かばなかった。ただ、断ることしか。

 ノールもまた、その結論は薄々予期していたのだろう。それ以上は食い下がることなく、ゆっくりと頷き、そのままうなだれるように力を抜いた。緊張から解放された理由が期待と違ったことを何とか飲み込んだのか、数秒後、勢いよく立ち上がった。


「わかった。ええっと……忘れろ」

「……かしこまりました」


 言葉は潔く、だが表情は……赤みが強く、食いしばるような。

 ミュスカはノールに言わせてしまったことを少し恥じながらも、何とか頷く。追うように立ち上がり、部屋を出るノールを見送る。扉を閉める前に振り向いたノールと視線が合い、二秒だけ見つめ合った。

 泣きそうなのはどちらだったか。

 決意を秘めて、ミュスカは腰を折る。深く一礼して、扉が閉まる音がするまで顔を伏せていた。



 ――その夜のうちに、ヴァイン宛に手紙が届けられた。ミュスカにしては力が入った固い文字で、こう記されていた。


【もうひとつ、売るものがありました。私の生命に、値を付けてくださいますか】

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